世は皆無常なり №10

平成21年2月17日

世は皆無常なり


 お釈迦様の最後のご説法、遺教経(仏垂般涅槃略説教誡経)は、お釈迦様が涅槃に入らんとする時の様子を「この時中夜寂然として声なし」と伝えています。この短い言葉に私は人々の無限の悲しみを覚えてなりません。真夜、重く垂れ込めた深い悲しみが覆い、あたりは恐ろしいまでに静まりかえって声を発する者もありません。

 師と仰ぎ人生の灯明としてきたお釈迦様の入滅に人々が肉親の死以上の悲しみを覚えたことは思ってなお余りあります。しかし、お釈迦様が最後の力を振り絞って人々に話されたのは「世は皆無常なり、会うものは必ず離るることあり、憂悩を懐くことなかれ、世相かくの如し、まさに勤め精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て諸々の痴闇を滅すべし」ということでした。

 お釈迦様の教えの根本は「諸行無常」です。諸行無常とは「永遠不変なものは何一つなく、ものは縁によって生じ縁に従って滅する。生者必滅会者定離。生ある者は必ず滅び会う者に別れは定めであって、いかなる人もこれを逃れることは出来ない」という真理です。お釈迦様は別れに臨んでこの教えを改めて説き「死や別れを悲しみ憂えてはならない。我が亡き後も戒を守り精進して解脱を求めなさい」と話されたのでした。

 遺教はお釈迦様最後の言葉として「汝等しばらく止みね、また語いうことを得ることなかれ」と伝えています。この言葉をどのように解釈するかは意見が分かれると思いますが、私自身はこの最後の言葉は「黙って坐りなさい」とをおっしゃったのではないかと考えています。苦行を捨て菩提樹の下に坐って悟りを開かれたお釈迦様が一番大切に思われたことはやはり黙坐、心静かに坐るということではなかったでしょうか。

 振り返って考えると、私たちの生活はあまりに動きと言葉に振り回されていると思われてなりません。一度テレビをつければそこには言葉が氾濫し、より多くより早くより強くより楽に、等々前進を促す宣伝が溢れていますが、時にはお釈迦様の言葉に習って退歩の大切さも学びたいと思います

鰯の頭も信心から №9

平成21年2月3日

鰯の頭も信心から


 今日は節分。遠い昔、節分の日の夕方は焼いた鰯の頭と柊の小枝を門口に刺して回ったことが思い出されます。この素朴な行事を皆様のおうちでは今でもされているでしょうか。「鰯の頭も信心から」という諺は実はこの風習から生まれた言葉なんですね。鰯の頭のようなものであっても一心に信心をしたら、それが不思議な力を発揮する有難く尊いものになるという意味です。

 考えると、今日の星祭りのお札を初めお守り類にも同じことが言えるのではないでしょうか。お札もお守りも言ってみれば紙切れです。神仏を信じない人から見れば鼻紙にもならないということになるでしょう。しかし、それを信じる人にはお札やお守りは神仏そのもの、観音様そのものなのです。

 神仏は信じる人に実在する、というのが私の年来の思いですが、西洋にも同じように「奇蹟はそれを信じる人に起きる」(Miracles are those who believe in them)という諺があることを知りました。一心の祈りがあるからこそお札もお守りも単なる紙切れではなくなり結果としてお蔭、恩寵ということが実感されるのだと思います。

 ついでながら、星祭りの意義について再び申し上げたいと思います。先達ても申し上げましたが、私たちは平生自分の意志で生きているように思いながら実は心臓の動き一つ意のままにはならないというのが真実です。「生死仏意」という言葉がありますが、死ぬも生きるも神仏のまにまにお任せするしかないのが私たち人間なのですね。

 「災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。死ぬときは死ぬがよろしく候」と言った良寛さんのようにはなかなかなれませんが、人間を含め宇宙を司っている存在に畏敬の念を抱き生かされていることに感謝することが星祭りの最大の意味であると思います。今日の出会い、今日の命に御礼申し上げます。