人身得ること難し №16

平成21年5月17日 

人身得ること難し


 私たちは自分の願によって生まれてきます。しかし、願によって生まれることは実はそんなにたやすいことではありません。己の願を種に例えればその種が発芽するためには多くの縁(条件)が必要なのです。人身得ること難し、とはそのことなのです。普段私たちは自分が水子とならず生まれていることに何の不思議も感謝も覚えませんが、実は縁によって生かされていることを知れば生きてあることが有難く不思議なことと思わざるを得ません。

 この寺も時折水子の供養をお願いされることがあります。私はその時、人身得ること難しの意味をお話し、水子の魂に再度のチャレンジを祈り続けて頂くようお願いしています。その祈りこそ最大の供養だと思うのです。一回のお経でこと終われりとするのではなく供養の気持ちを持ち続けることが本当の供養ではないでしょうか。

 水子となる原因は様々です。縁の不足はその魂自身によることも産んでくれる親によることもありましょう。しかし、それでは水子となってしまった魂はみんな宿善が足りなかったのか未熟な魂なのかと言えば決してそうではありません。水子のなかには水子となることを目的にする魂もあると思われてなりません。幼くして命を終える子の中にも同じような魂があるに違いありません。

 私たち人間はみな魂の修行者です。そしてこの修行は陸上のトラック競技に例えることができしょう。一斉にスタートして走り出しても人それぞれ遅速があります。長距離になれば当然差が生じ、その差はやがて一周、二周、三周となっていくに違いありません。人間という存在は不思議だと思います。神仏に近い人もあれば動物にも劣る人もいます。敢えて水子となる魂は水子となることによって私たちに命の尊さと不思議さを教えようとしてくれているのではないでしょうか。

 南無地蔵 花を手向ける (ひと)のあり


春、物の実を土に(うえ)るを,因というなり。すでに植えるといえども雨露のたすけなければ成長せぬなり。雨露の助けを縁というなり。沢庵禅師