廬山は烟雨浙江は潮
唐宋八大家の一人蘇軾(東坡)に禅の世界でよく引かれる有名な詩があります。
廬山烟雨浙江潮(廬山は烟雨浙江は潮)
未到千般恨不消(未だ到らざれば千般恨み消えず)
到得帰来無別事(到り得て帰り来たれば別事なし)
廬山烟雨浙江潮(廬山は烟雨浙江は潮)
廬山の烟雨も浙江の潮も天下の絶景と言われています。誰しもその有名な景観を一度は見たいと思います。まだ見ぬうちは一度は見たいという思いが募ることは当然でありましょう。しかし、念願叶って見ることが出来て帰ってきたら別に何ということもない。相変わらず廬山は烟雨浙江は潮だというのです。
この詩で難しいのはこの「別事なし」という言葉でしょう。ある人はこれを「絶景という評判を聞いて期待してきたがどうということもなかった」と解釈しました。「来てみれば聞くより低き富士の山」という言葉もありますが、でもその解釈ではこの詩は単なる失望を詠んだ詩になってしまいますね。
私はこの詩は道元禅師の言われた「眼横鼻直」と同じではないかと思うのです。道元禅師は師如浄禅師の下で人はみな眼は横に鼻は縦に着いていることを認得したとおっしゃっています。恐らく人間という存在を突き詰めて考えていた時ひらめいたのがこの悟りの言葉ではなかったでしょうか。しかし、道元禅師にとってこの悟り以後人間が別の存在に変わった訳ではなかったはずです。
むろん、「眼横鼻直」によって禅師の人間観は変わったと思います。でもやはり人間は人間、なお自己究明の不思議を持った存在に変わりはなかったと思うのです。今日はお彼岸中日、廬山は烟雨浙江は潮を思ってください。
朝朝日は東に出でて
夜夜月は西に沈む
~道元禅師~