持戒ということ №38

平成22年2月17日

持戒ということ

 お釈迦さまが亡くなったのはインド暦二月の満月の日と伝えられています。それで中国や日本では毎年二月十五日を涅槃会として仏遺教経、仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)を読むことを習わしとしています。このお経はお釈迦さまが最後の力を振り絞って私たちに語りかけて下さったことばですからその一つ一つが惻惻として身に迫るのは当然ですが、今回はその冒頭におっしゃられた「持戒」(戒を(たも)つ)ということを考えたいと思います。

お釈迦様は最後の説法の最初に「汝等比丘、我が滅後においてまさに波羅提(はらだい)(もく)(しゃ)を尊重し珍敬(ちんきょう)すべし」と言われました。波羅提(はらだい)(もく)(しゃ)は「戒本」と訳されます。往時、比丘には250戒、比丘尼には350戒の戒律が課せられていたと言いますが、それら戒律が書かれていた本が波羅提(はらだい)(もく)(しゃ)なのです。そのお経(戒本)を「暗闇の中の明かりあるいは貧人の宝の如くに大事にしなさい。それはあなた方の偉大なる師なのです」と言われたのです。

私はお釈迦さまの最後の説法の最初の言葉が「戒を(たも)ちなさい」という言葉であったことに深い感慨を覚えます。これは我が身の反省で言うことですが、日常の私たちはどうしても安易に流れがちです。私たち出家者は得度に際して三宝に帰依した後、三聚(さんじゅ)(じょう)(かい)や十重禁戒を守るべき戒として受けますが、厳密にいえば日常これらの戒をどこまで守っているだろうかと考えると忸怩たる思いを否めないのです。

 お釈迦様は「(持戒こそが)正順解脱の本なり。この戒によって禅定および滅苦の智慧を生ずることを得」と言われました。戒こそが教えに正しく従い悟りに至る根本である。戒を持つことによってこそ禅定と智慧を得ることが出来るのだと言われたのです。これは出家、在家に関わらず言えることでありましょう。我が身に課した戒を守る、守る努力をする、それが私たち一生の務めではないかと思います。



まさに知るべし。
戒は安穏功徳の所住処たることを。
                仏遺教経~