ほたる №49

平成22年6月18日

ほたる

 今年ももう半年。六月になりましたね。「()(とし)水無月のなどかくは美しき」と詠ったのは伊東静雄でしたが、確かに六月という月はどこか他の月とは異なった雰囲気を持っているような気がします。私のイメージの一つは「咲き誇る垣のつるバラ/黄に澱む日差しを浴びて/めくるめく真昼時/何処やらん遠くに/甲高きピアノの音/という情景ですが、皆さんもそれぞれにイメージをお持ちのことでしょう。 
 


 ところで、六月と言えばやっぱり「ほたる」ですよね。山口県はほたるの名所が多いと思います。私、昨年は長門の湯本近くで見る機会がありましたが、漆黒の深い谷筋から湧き上がるように上ってくる沢山のほたるに思わず息をのむ思いでした。音もなく緩やかに弧を描いて闇に消える様はまさに幻想的としか言いようがありませんでした
 


 でも皆さん、私たちはどうしてほたるにこんなに魅せられるのでしょうか。なぜほたるを見たいと思うのでしょうか。私はその秘密が「幻想的」ということにあると思います。先ほど私もほたるが飛ぶ様を幻想的と言いましたが、ほたるの魅力はまさに幻想的であることではないでしょうか。
 


 幻想的ということは夢幻でありこの世のものではないということです。ということは私たちはほたるに魂の世界を重ね合わせているということです。私がそのことをむしろ自信を持って申し上げるのは、以前夢で魂の世界を見せて貰ったと思うからです。至福の喜びに満ちたその世界は魂の一つひとつが青や緑に輝く光そのものでしたが、それを例えるならほたるなのです。ほたるは私たちに霊界の記憶を思い出させるに違いありません。
 

 そういえば、まだ本当に幼いころ、母の背におんぶされて様々な色をした沢山の球体が夜空に浮かんでいるのを見た記憶があります。それが夢であったか現であったか。それも霊界の記憶の一端だったかも知れませんね。



     昼ながらかすかに光るほたる一つ
         孟宗の藪を出でて消えたり
               ~夏目漱石~