この一年 No.123

平成231225

この一年




 先年亡くなった杉浦日向子さんにこんな言葉があります。

 『それにしても、軽々しく口に出す「わたしたちの地球」という言葉はオコガマシイですね。「地球に生かされている人類」であって、養い親の堪忍袋の緒の限界に、ビクビクと首をちぢめる良い子に帰れるといいのにナ。』

 この一年を思うと、この杉浦さんの言葉ほど痛切に感じられるものはありません。あの三月の大地震・大津波を前に私達は為す術がありませんでした。鉄壁を誇った防潮堤があのように無残に破壊されることなど夢にも思いませんでした。そして多くの命が失われました。無念のうちに亡くなった人たちのことを考えると、いまでも胸が痛みます。

 災害は来る時は来ます。それが大災害であれば、今回のように多くの町が破壊され何万もの命が奪われます。傲慢に生きようと敬虔に生きようと災害には無縁です。杉浦さんがおっしゃった「ビクビクと首をちぢめる良い子」の意味は何でしょうか。首をちぢめながら生きていても災害を免れることはありません。それなのに杉浦さんはなぜこうおっしゃったのでしょうか。

私たちは結局、生かされている存在に過ぎません。杉浦さんはそのことをおっしゃりたかったのだと思います。生かされている命を感謝して生きることの大切さを言われたのだと思います。自然の恵み、自然の脅威に畏敬の念をもって敬虔に生きること、人間も地球に生かされている一存在に過ぎないことを言いたかったのだと思います。

思えば、私たちは自然や神など大いなる存在に対する畏敬の念を失ってきたのではないでしょうか。生活のすべてが自然と共にあった時代には人々は自然に対する畏敬の念を忘れることはありませんでした。そして、そこに神仏を見出して祈りを捧げることが生活の基本でした。忘れることのできない今年が暮れようとする今改めてそのことを思っています。



 無常とふ 言葉はあれど 耐え難き 悲しみの年 いさよひて暮る

ツバキ問答 No.122

平成23年12月18日

ツバキ問答




 これはSさんから聞いた話です。先達てSさんがツバキを買ってきて玄関前に仮活けしておいたところ、知りあいがやってきて「まあ、サザンカこんなに沢山どうしたんねん」と聞かれるので「これツバキです。お花屋で買うてきましたん。」とお答えしたのだそうです。すると、その方「ツバキ? ツバキはまだ咲かん。これはサザンカじゃ」と言うのだそうです。

 そのツバキはお花屋から求めてきたのですし、Sさんはご自分でもお花を習っていてツバキとサザンカの違いはご存知ですから、ツバキにも沢山あって早く咲き始める種類もあることを話したのだそうです。ところが、その方は「いいや、これはサザンカじゃ。サザンカに間違いない」と固執して譲らなかったのだそうです。

 確かにツバキという字は木偏に春ですから春咲く花の代表といってよいのでしょうが、種類も多くもともと暖地に自生している木ですから花の時期が長くて、このあたりでは暮の今ごろ普通に咲いていることはみなさんもご承知と思います。ただ、同じツバキ科のサザンカも晩秋に咲きますから見間違うことの多い花かも知れません。

 しかし、このSさんの話で私が思ったことは我見の怖さでした。サザンカと言い張った人はツバキは春の花という固定観念があったのでしょう。 幼少時代に見慣れたツバキが春になって咲く種類であったのかも知れません。しかし、Sさんが言われたようにツバキには11月には咲き始める早咲きも少なくありません。固定観念に拘れば判断を誤ることになるのです。

 私たちが自分の人生の中で経験できること、知識として獲得できることなどたかが知れています。しかし、私たちはその僅かな体験や知識で物事を判断しがちです。それは結局我見に過ぎません。井の中の蛙、葦(よし)の髄から天井をのぞく、ことです。誠に残念ながらツバキをサザンカと言い張った人は我見を改めることが出来なかったと言えましょう。

 しかし、私たちはその人を笑うことはできません。私たちも同じように我見に捕らわれているのです。真実・正当と信じながら実は独りよがり、迷妄のうちに言動していることを思わなければなりません。反省させられる話でした。

善事悪事 No.121

平成23年12月17日

善事悪事




 坐禅会の後にみんなで勉強している「正法眼蔵随聞記」の中に善事悪事(よい行い悪い行い)の話が出て来ました。道元禅師はこの随聞記の中で繰り返し、仏道を学ぶ者が世を捨て家を捨て身を捨て心を捨てることの大切さを話されていますが、それが難しいことは言うまでもありません。だからこそ繰り返してお話しをされたのでありましょう。

 先日読んだ「行者先ず心を調伏しつれば」(巻3-1)で、禅師は「心を調え、その動きを静めてしまえば身を捨てることも世を捨てることもたやすい。しかし、それがなかなかできないから物を言うにも動くにも人目ばかりを考えている。人が悪く思うだろうと考えてしなかったり、よく思われるだろうと思ってするのは世情である」とおっしゃるのです。

 これを読んでまず思ったことは人の心って変わらないということでした。道元禅師がこのお話をされたのは八百年も前のことですが、自己の言動のもとに人目があることは今も全く変わりありませんね。私はむろんみなさんもその通りと頷かれるのではないでしょうか。世情人情というのは時代に無関係なのでしょう。

 道元禅師はその世情人情を認めたうえで「道に入ったばかりの修行者は世情で考えても人情で考えてもよいから悪事はしないようにし、善事を身をもって行なっていくのがよい。それが身も心も捨てることになる」と言われるのです。いつも世情人情に翻弄されている我が身には大変に有難い励ましです。一緒に読んでいた皆さんにとってもこのお示しは同じように救いになる言葉であったと思います。

 しかし、翻って善事、悪事とは何を言うのでしょうか。悪事については十重禁戒にいう殺生、偸盗,邪淫などのように人倫にもとることと見当がつきますが、一方の善事とは何を言うのでしょうか。仏法からすれば坐禅でしょうが、世情人情からすれば「世のため人のため」になる行ないでしょうか。 恐らく世情人情と言われた時は道元禅師も同じようなイメージであったと思います。皆さんと共に小さなことから実践したいと思います。

霊力 No.120

平成23年12月8日

霊 力




 神奈川のIさんから交通安全のお守りについてお手紙を頂きました。お手紙には「家族みんなに手作りしたお守り袋にまた一年無事に過ごせますよう願いを込めて入れ替えさせて頂きました」と書いて下さってありました。毎年お守りを求めて下さっているIさんですが、このお言葉には有難く感激でした。ここにお守りの意味があると感銘を受けました。

 観音寺では年5回の法要のうち四月の花祭り法会を除いて一月は元朝祈祷および初観音、 二月星祭、八月火除け、十一月交通安全、とそれぞれのお札お守りを皆さまにお求め頂いていますが、皆さまはこれらのお札やお守りにはどんな意味、そして効力があるとお思いでしょうか。申し上げたことがあると思いますが、言ってみればお札もお守りも紙切れです。その紙きれのお札、お守りにどんな意味、力があるのでしょうか。

 実を申せば、お札やお守りは単なる紙切れではありません。私たちの祈りを叶える観音様そのものなのです。お札やお守りの法要には必ず皆さまと一緒に観音経を読みますね。「叶」という字は「多くの人が声を合わせる」という会意文字ですが、多くの人が声を合わせてお経を読むことによって観音経が霊力、不思議な力を発揮するのです。

 その霊力を持ったものがお札、お守りなのです。だからこそお札、お守りには叶える力があるのです。お守りのお蔭で危うく難を免れたとお礼詣り下さる方がありますが、それはお守りが楯となってその方を事故や怪我から守って下さったのでしょう。それこそが観音様の霊力、人智を超えた不思議な力、観音妙智力なのです。

 しかし、ここで皆さんにお願いしたいことがあります。それはIさんのようにお札、お守りに祈りを新たにして下さいと言うことです。お守りは常に持ち、お札は見やすい場所に貼って目にする度に祈りを新たにして頂きたいのです。その祈りは無意識のうちに自らが危険を回避し幸運を招く縁を作っていくことになるのです。 お札やお守りは私たちが祈りの生活になるための導引パイロットなのです。

百万一心 No.119

平成23年12月7日

百万一心




 11月30日、表題の会が山口市小鯖の禅昌寺で開かれました。今年度の山口県曹洞宗「心の大学講座」が東日本大震災復興支援プロジェクトの一環として県青年会の主催で行われたのです。表題の「百万一心」は毛利元就公の言葉と言い伝えられているそうですが、まさに国難とも言うべき大震災から立ち直るには私達一人ひとりが心を一つにして向かうしかありません。被災の関心が薄れようとする時であれば一層心を新たにしなければならないのです。

 我が観音寺からは5名の方が出席して下さいました。月末の多忙の時に時間を作って参加して下さった方々に先ず心からの御礼を申し上げます。青年会長もその挨拶の中で意識を薄れさせないことの大切さを言われましたが、その意味でも参加して下さったこと自体に大きな意味と力があると思います。本当に有難うございました。

 会には釜石市から和太鼓の「桜舞太鼓」の方々がお出でになり力強い演奏を披露されましたが、会場を埋めた五百人もの参加者とその声援に笛の音が感涙にむせぶ一こまもあり、百万一心の願いどおり演奏する人も聴く人も一つになった演奏でした。「桜舞太鼓」は津波で全ての太鼓を失ったばかりか団員の一人が犠牲になったということですから山口での演奏に感無量だったと思いますが、逆に励ましと勇気を頂いたのは聴いていた私達だったと思います。

 また、午後には歌手南こうせつさんのお兄さん、南 慧昭老師のチャリティコンサートがありました。慧昭老師は定年後に僧侶になられたといいますが、音楽活動は学生時代からされていたそうで実に美しい声であるばかりかお話も見事で楽しいコンサートでした。途中全員で「赤とんぼ」や「ふるさと」を歌いましたが、歌いながら思わず涙がこぼれそうになったのは私一人ではないと思います。歌の力ってすごいですね。

 被災地はこれから寒い冬です。この先にまだ希望を見いだせず悲しみと孤独に取り残されている人たちも沢山いるに違いありません。どうぞ皆さん、祈りを続けて下さい。祈りは力なのです。祈りの力が願いを実現させるのです。

  身にしみて 亡き人思う 時もあり 募る寒さの 秋の夕暮れ

見死不救 №118

平成23年11月18日

見死不救


 先日、8日の毎日新聞に上の言葉を見ました。「(けん)()不救(ふきゅう)」とは「死にそうな人を救わない」という意味だそうです。いま中国でこの「見死不救」の行為を罰すべきだという声が沸き上がっていると言います。そのことが、何故いま中国で?というのは理由があります。つい最近「見死不救」そのままの悲しい事件があったのです。
 
 先月13日のことです。広東省仙山市の市場でひき逃げされた2歳の女の子がそばを通る誰にも助けられず数日後に死亡するという痛ましい事件がありました。道路に倒れている女児の横を18人もの人が見て見ぬふりで通り過ぎ、やっと19人目の女性が助け起こしたものの命を救うことは出来なかったのです。
 
 インターネットの映像は切ないものでした。女児のそばを皆見ぬふりで通り過ぎていくのです。気づかなかったという人はともかく大半は気づいていて通り過ぎたのです。小さな女の子の不安と恐怖を思うと胸が潰れそうな切なさを覚えてなりませんでした。その中国でいま薄情社会からの転換を叫ぶ声が起きているのはけだし当然と言えましょう。

 弱肉強食の戦国時代、性善説を説いた孟子に「惻隠(そくいん)」という言葉があります。幼い子供が井戸に落ちようとするのを見たら人は誰しも驚いて助けようとするであろう。それが惻隠の情、他人の苦しみ悲しみを我がことの如く同情し助けたいと思う心だと言うのです。孟子は「人皆、人に忍びざるの心(惻隠)あり。惻隠の心無きは人に(あら)ざるなり」と言うのです。

 仏教に言う「布施」はこの惻隠の情を原点にしているのではないでしょうか。三施(三つの布施)とは財施、法施、無畏施(むいせ)を言いますが、この無畏施こそ人の悲苦を救おうとする惻隠の心の表われだと思います。苦しみにある女の子を見ぬふりで通り過ぎた人たちは惻隠の心がなかったのでしょうか。孟子の言う人非人なのでしょうか。

 この問題は決して中国だけの問題ではないと思います。無縁社会と言われる我が国でもいつ同じようなことが起こるか知れません。いやすでに起きているのかも知れません。改めて観音様の慈悲の心を学びたいと思います



    施無畏者とは観音さまなり。
    抜苦与楽、慈悲の観音菩薩なり。