続・メビウスの帯 №134

平成24年3月31日

続・メビウスの帯


 たより№132でご紹介した「メビウスの帯」を先日の観音様の会と彼岸会の時に実演して皆さまのご関心を頂きましたが、その後、生と死についての自分の考えは違うのではないかという思いが生じました。観音様の会の時は生と死がそれぞれの延長上にあって、その生と死を私たちは無限に繰り返しているのではないかと申し上げましたね。

 また、彼岸会の時は、彼岸と此岸は実はこのメビウスの帯のように同一線上に同時にあるのではないか、と申し上げました。仏教の教えでは彼岸、即ち西方浄土は西十万億土の彼方ということになっていますが、彼岸はそんな想像もできないような遠いところにあるのではなく、この世この世界、私たちが暮らしている日常の中にあるのでは、という思いからでした。

 そう考えた時、生と死も互いの延長上にあるのではなく彼岸此岸と同じように同時に存在していると考えた方が正しいのではないかと思えたのです。普通に考えれば生と死は歴然としています。生と死は別次元と解する方が一般的ではないでしょうか。しかし、生と死は生と死ではなく生死(しょうじ)、生死一如と考える方が正しいと思われて来たのです。

 一つ例があります。私たち人間の体は60兆の細胞で成り立っていると言われますが、何と毎日、このうち200分の1の細胞が死に、それに相当する新しい細胞が生まれているのだそうです。人間の体が細胞の生と死という「動的平衡」によって支えられているということは、私たちが生と死を同時に合わせ持った存在ということになるのです。

 考えれば一つの事象の中に相反する事象を内在させることは自然のなかにもあります。二十四節季にある立春は春の初めと言われますが二月四日はまだ冬さなかです。寒中と変わらぬ寒さの時です。しかし、その時既にそこに春が存在しているのですね。相反する冬と春が同時に存在しているのが立春と言えます。立夏も立秋も立冬も同じことでしょう。

 メビウスの帯に戻れば、私たち人間は生死を同時に合わせ持った存在として無限の旅をするのでしょう。生の中に死があり死の中に生があるのです。

花咲きて 花散りてゆく 些かの 迷ひもなくて 時のまにまに


生より死にうつると こころうるは、これあやまりなり。~「正法眼蔵・生死」

寂しい時には №133

平成24年3月18日

寂しい時には



        ありありと 春愁の眉 阿修羅像    倉橋羊村

 先達てのたより(睡る蛇・№129)で寂しさのことを書きましたら、思い当たる節があったのかさるお方に「あれはさみしかったですね」と言われました。ま、私とていつも寂しさに襲われている訳ではありませんし、日常はむしろ能天気と言ってよいのですが、考えれば人は誰しも寂しさを思わないことはなく、人生そのものが寂しさと道連れだろうと思うのです。

 和歌の時代には「三夕の歌」に代表されるように、寂しさと言えば「秋の夕暮れ」でしたが、近代はむしろ冒頭の句のように春の愁い、春愁が言われるようになりました。阿修羅の眉に春の愁いを見たのは現代詩人の感性だと思います。そんなことを思っていたらネットで「理由なくさみしいときの対応法」というのを見つけましたのでご紹介いたしませう。

 対応その①は「30秒ほど上を向く」です。落ち込むとうつむきがちになりますね。「上を向いて歩こう」です。②は「光を浴びる」です。これは鬱の治療として言われていますね。光がエネルギーであることは間違いありません。③は「意味なく笑う」です。いまラフターヨガが注目されていますが、笑いにがんを治す効果があることは医学的に確かめられていますね。

 ④は「ポジティブな言葉を独りごとで言い続ける」です。明るく力強い言葉を繰り返すことで言葉の力を成就させるのです。⑤、⑥は「楽しかったころの音楽を聴く・匂いを嗅ぐ」です。これは認知症の人の改善にも有効ですね。楽しかった時の元気を呼び戻すのが歌や匂いなのです。そして最後⑦は「寝る」です。そう、寝られれば寝るのが一番かも知れません。

 どうですか、みなさん。ここに紹介したこの七つの方法はどれもその効果が確かめられているものです。多分皆さまも気持ちが沈んだ時、このうちのどれかをなさっているのではないでしょうか。③の意識的に笑うことはなじみが薄いかも知れませんが、これはお詣りの方にラフターヨガの先生がおいでですので、いずれ体験をお願いしたいと思っています。「ワッハッハ、ワッハッハ、ワッハッハのハノハノハ…」ってね。
日をまともに見ているだけで


うれしいと思っているときがある      ~「太陽」・八木重吉

メビウスの帯 №132

平成24年3月17日

メビウスの帯


      生と死は メビウスの帯 きっとそう 表裏一体 無限に続く



 今日は彼岸の入り。何時だったかも申し上げましたが、一体彼岸とは何処でしょう。阿弥陀様の浄土は西方十万億土と言われますが、十万億土の彼方なんて想像もつきませんね。ただ、彼岸を悟りの境界と理解するならば、それは距離の問題ではなくなります。一人ひとりの心の問題になりますね。此岸と彼岸は一体のものになります。

 メビウスの帯ってご存知でしょうか。細長い紙の帯(テープ)を一度ねじって両端を糊づけしたものです。ところが、ただそれだけのことで表裏の区別がなくなる不思議な曲面(輪)になるのです。試しにその面の一点からずっと辿って行くと最初の点に戻ります。また、そのテープ幅の中央を切っていくと二つの輪にはならず、一つの大きな輪になるのです。

 このメビウスの帯のことを考えていて気がつきました。生死、つまり生きることと死ぬことはメビウスの帯ではないかと。 生きることの延長上に死があり、死の延長上に生があるに違いありません。葬儀の時の回向の一つに「切に以(おもんみ)れば、生死(しょうじ)交謝(きょうじゃ)し寒暑互いに遷(うつ)る」という言葉がありますが、「生死交謝」とはまさにこのことではないでしょうか。

 朝が来て夜になり季節の移ろいで寒暑が替わるように、私たち人間もメビウスの帯の上で、生まれて生きて死んで生まれることを繰り返しているのでしょう。先ほど申し上げたように、メビウスの帯は帯の中央を切っていくとねじれたままの大きな輪になりますが、それは何と数学で使う無限大記号(∞)なのです。

 初観音の時のたより「年々歳々」(№126)でも申し上げましたが、無常の存在であり無常を生きている私たち人間は、無常であるがゆえに永遠であると思います。そこでは生が此岸でもなく死が彼岸でもないでありましょう。あざなえる縄の如く時に彼岸、また時には此岸。私も苦と楽と悲しみと喜びに七転八倒し続けていくに違いありません。

一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すものは、その福初めて久し。「菜根譚」

続・さくら証書 No.131

平成24年3月6日

続・さくら証書


 前号、「さくら証書」(№130)で子供は親を選んで生まれてくるという話をしましたが、お読み下さった方には疑問を持たれた方もおいでだろうと思います。 それでは親から虐待されている子供もその親を選んできたのかという疑問です。 親から虐待を受けている子供は虐待されることを望んで生まれて来たのか、ということになりますよね。

 近年、我が国では親による子供の虐待事件が後を絶ちません。暴力を受けたり食べ物を与えられなかったりして幼い命が失われるニュースを聴くたび、その痛ましさに悲しみを覚えてなりませんが、実はつい最近、以前同僚だった先生からこれに類する話を聞きました。親から冷たい仕打ちを受けて心の安定を保てない子供の話です。

 切ないのはその子が母親から「死ね」と言われたことがあるということでした。その子はそのことを半ベソで話したと言いますが、母親の言葉がどんな大きな心の傷になったかは思ってなお余りあります。授業や集団の中でとかくトラブルを起こしがちということも、その遠因は幼児期に母親とのしっかりした愛着関係が出来なかったことにあるのでしょう。

しかし、このような例でもその子はその親を選んで生まれたと言えるのでしょうか。酷なようですが、結論から申し上げれば「その通りです」ということになります。親を選ぶということは自分にとってつらく苦しいことも予定のうちです。その困難や苦しみを克服することを新しい地上生活の課題とするからです。その子は「霊的原像」をそのように作ったのです。

その子がいま熱中しているのは段ボールの家づくりだそうです。その家にはポストまでついているのだそうです。話してくれた先生が言う通り、家は居場所を、ポストは親しい人とのつながりを求める心の表われでしょう。私はそこにその子が意図した地上生活の課題を克服しようとする努力を覚えざるを得ません。その子に「ガンバレー、ガンバレー」と声援を送りたい気持ちで一杯になります。私たちにとってつらく困難な問題こそ自分が克服すべき課題として意図してきたものと言えるでありましょう。

さくら証書 No.130

平成24年3月4日


 さくら証書


 NHKラジオ深夜便をお聴きの方はご存知と思いますが、先日久しぶりにラジオをつけましたら「深夜便の歌」で大江千里・八神純子さん作詞・作曲、八神純子さん唄の「さくら証書」が流れていました。桜の花びらが舞う我が子の卒業式の日、過ごした日々を懐かしく思い出しながら、子の行く先を思う母の心情をしみじみと綴った歌です。

 私がこの歌に関心を持ったのはその歌詞でした。歌い出しが「生まれてくる時/子供たちは皆 父と母を選ぶのだと/いつか教えられた/それが本当なら/わたしたちのこと/選んで生まれてきてくれた事に“ありがとう”」となっているのです。皆さんは生まれてくる子が親を選ぶってお聴きになったことがあるでしょうか。

 実はこれはドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)が言っていることなのです。そう、シュタイナー学校の基を作った思想家です。その独自の哲学はいまも教育を初め医学、建築、農業等多様な場で実践されていますが、その根本にあるのが霊的人間観と言えましょう。人間は生死を繰り返すという輪廻転生を思想の根本としているのです。

 シュタイナーは言います。「私たちには、自分が負担をかけた人たち、自分に負担をかけた人たちがいますが、(死後)この人たちとの関係も魂の前に償いを求めて現れ、次の地上生活において再びその人たちと一緒に生きようと(中略)新しい地上生活の霊的原像を作り」、その「新しい地上生活入るために父親と母親から受ける物質成分に自分を結びつけます」と。

 つまり、私たちは自分の新しい地上生活の霊的原像を生きるため、「遺伝的な特徴とこの原像との間に親和力が見出せるような両親に惹(ひ)きつけられる」というのです。それが親を選ぶということなのです。この「さくら証書」の歌のように、我が子が自分達を親に選んで生まれて来たことに喜びを覚え、同時に子供が父母を慕って成長していくならば、その子供はまさにシュタイナーのいう「霊的原像」を実現させる人生を歩み始めたと言えるでありましょう。私たちは誰一人無目的に生まれてくることはないのです。