遷化・開眼一年 №137

平成24年4月9日

遷化・開眼一年


 この四月は住職ネコちゃんの遷化一年、そしてやすらぎ平和観音様の開眼一年に当たります。思えばこの一年はあっという間でもあり同時に長かったという気もします。それは皆さまにとっても同じではないでしょうか。昨年三月、私たちは千年に一度と言われるほどの大震災と津波に襲われ多くの命と財産を失いました。その悲しみと苦しみは今なお続いています。

 私たちはそのような中で何をよりどころに生きたらよいのでしょうか。奇しくもやすらぎ平和観音様が開眼したのは震災からまだ一カ月もたたない時でした。私はそこに不思議な縁を感じてなりません。私たちがいま出来ること、なすべきことは祈りだと思います。被災の方々の苦しみや悲しみを和らげ、やすらぎをもたらしてくれるのは私たちの祈りだと思います。

 祈りは力です。祈りこそが不思議な力、観音妙智力をもたらしてくれるのです。神秘学から言えば震災や津波で亡くなった若い魂は、その力を霊界で発揮してくれる筈ですが、それを願い望むのが私たちの祈りなのです。嬉しいことに最近、やすらぎ平和観音様におまいりをして下さる方が多くなっているように思います。有難いことと感謝しています。

 祈りと言えば、私は住職ネコちゃんの一生もまた祈りではなかったかと思います。あたかもキリストのようにこの観音寺の納屋で生まれ、以来十七年の一生の間、寺を一日も離れることなく過ごしました。そしてその間、おまいりの方々への挨拶を自らの使命としてくれました。だからこそ皆さまに「住職ネコちゃん」という愛称を頂けたのでしょう。

 ネコちゃんはいまでもこの「かんのんだより」に登場してくれていますが、ネコちゃんの一言を楽しみにして下さっている方も多く、時にはネコちゃんの表情がいかめしく見えることがあると言って下さる方もあります。死してなお多くの人に慕われるネコちゃん。ネコちゃん冥利に尽きる人徳、いや猫徳でありましょう。

 私事になりますが、たまに寺を留守にして戻った時、以前のように声を上げながらネコちゃんが迎えに出てくれるような錯覚に陥ることがあります。そして「あぁ、いないんだ」と思うのは淋しい限りですが、ネコちゃんはこれからもこの寺の守り観音として存在してくれるに違いありません。感謝です。



 早なのか ようやくなのか この一年 観音さまに 祈り続けて

 春が来た ネコちゃん庭で 遊んでる ここにもそこにも あれあすこにも

ただ独り歩め №136

平成24年4月8日

ただ独り歩め


     苦楽相生之娑婆      苦楽半ばの娑婆世界

     人生人間是什麼      人間とは、と問はれたら

     笑而答唯我独存      唯我独り、と答えませう

     孤生独逝生命河      一人生まれて一人逝く



 花祭りの頃になるといつも思い出します。誕生されたばかりのお釈迦さまが七歩歩いて右手を上げ「天上天下唯我独尊」と言われたということを。勿論お釈迦さまが自分だけが尊いと言われるはずはなく、いやそれより生まれて直ぐに七歩歩いて言葉を言うなんてあり得ず、これは後の付会伝説とは思いますが、それにしてもと気になるのです。

 そして思いついたのが上の法語。唯我独尊を唯我独存ともじってみたのです。しかし、思って下さい。 私たちは一人では暮らせません。世話になったり世話したり迷惑かけたりかけられたり。みんな誰か何かのお蔭で生きています。「誰の世話にもなりたかねぇ」と粋がってみても食う寝る生きるどれ一つお蔭に寄らないものはないのです。

 若い頃、旅をしていてつくづく思ったことがありました。旅というのは帰るところがあるから旅なのです。帰るところがありそこには家族や友人がいるから旅なのです。帰るところのない旅は旅ではありません。それは悲しい流浪、孤独の放浪です。日常という旅でもそれは変わりありません。私たちはお蔭を受け絆によって支えられているから生きていられるのです。

 しかし、お釈迦様は「独り歩め」とおっしゃいました。「世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)と言われるのです。生まれること死ぬことがそうであるように人間には他の人が代われないもの、その人がするしかないものがあります。どのように生きるか、がまさにそれではないでしょうか。お釈迦様はそれを言われたのでしょう。

六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり 独り生まれて独り死す  ~一遍上人

随所作主 №135

平成24年4月1日

随所作主


 つい先達て、朝のお勤めが終わって外が明るくなった頃、突然S君が本堂に現われました。こんなに早く、と思ったら、お別れに来たというのです。S君は出向で防府の車工場に勤めていたのですが、またもとの佐渡の工場に帰ることになったと言います。S君にとって山口での生活は充実した楽しい毎日であったということですから佐渡に帰るのは望みではありません。 ずっと山口にいたいというのが本音なのです。心残りの別れでした。

 これより十日ほど前、所要で神奈川に帰宅した折、以前同僚だった女性のA先生から驚くほど素晴らしい話を伺いました。A先生は定年まで三年残して今春の退職を決意されたのですが、何とそれを待ってくれていたかのように箱根にある「星の王子様ミュージアム」の館長という願ってもない仕事を任せられることになったというのです。

 三月は卒業と別れの時、四月は出発と出会いの時と言いますが、私は上のS君、A先生に共に「随所作主」(随所に主と作(な)る)という言葉を紹介しました。この言葉は臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉ですが、この語句には「立処皆眞」(立処皆な眞なり)という言葉が続いています。「随所に主となれば立処みな眞なり」とは、あなたがおもむくところあなたが主人公になればそこに真実が現れるということです。

 主となる、の主とは真実の自己、無位の眞人を言いますが、私は与えられたところで全力を尽くすと解します。全力を尽くすことが真実の自己を現わすことにつながると思うのです。分かりやすく言えば一生懸命努めることだと思います。人が一生懸命、必死になった時不思議な力、天の助けがあることを私は信じてやみません。

 S君にとって佐渡での生活は今までのように楽しいものではないかも知れません。しばらくはきっとそうでしょう。また、Aさんはこれから未経験の仕事に取り組む訳ですからその苦労と不安は並みではないはずです。だからこそ私はお二人に、いやこれから新しい出発をされる全ての皆さんに与えられたところで全力を尽くすことをお願いしてやみません。

Heaven helps those who help themselves.
天はみずから助くる者を助く