平成26年 2月26日
死後の悔い
先日の二月の観音様の会は、例年のように涅槃会を兼ねてお釈迦様の最後の教え、遺教経(佛垂般涅槃略説教誡経)の前半を皆さんと一緒に読みました。その前半最後のところでお釈迦様は「諂曲(こびへつらい)の心」を戒め、質直(すなおにまっすぐ)に生きることの大切さをおっしゃっていましたね。
お釈迦様はこの最後の説法の後半では少欲・知足に始まる八つの戒めを言われ、この八つの戒めに努力精進すること、教えを忘れないことを重ねて望まれます。そしてこう言われるのです。「常に當に自ら勉め精進してこれを修すべし、為すこと無うして空しく死せば後に悔あることを致さん」と。
皆さんはこれをどう解釈されますか。問題は後ろの部分、なすべきことをしないで空しく死んだならば(その)後に悔いがあるだろう、という言葉です。教えの実践に努力せずに死んだなら後悔する、とはどういう意味でしょう。私はこれは私たちにとって大変怖いことをおっしゃっていると思います。
後悔というのは普通、私たちが生きているうちに感じるものですね。自分の行為や言葉がもたらした悪い結果に対して悔いることが後悔でしょうが、お釈迦様はここでは死後の後悔を言っておられるのです。これはとりもなおさず、私たち人間が死後もなお生き続けているということに他なりません。
お釈迦様は死後のことなど、形而上的なことにはお答えにならなかったと言いますが、それは死後を否定したのではありません。ここに見られるように私たち人間は肉体の死後もなお修行する存在であり続けることを言われているのです。私たちの人生は一回でおしまいではないことを言われているのです。
私はここに努力精進の意味があると思います。人生が一回限りなら努力の必要はなくなるかも知れません。しかし、次の生があるとなれば今の人生をどう生きるかが大切な問題にならざるを得ません。私たちは永遠の修行者なのです。
春浅く 涅槃西風吹く その風の
冷たき中に あふれる光