知って、変わる №276

知って、変わる №276
平成26年7月20日

知って、変わる 

 仏教の教えは簡単です。よいことをする。悪いことはしない。基本はそれだけです。唐の詩人白居易が、(ちょうか)和尚にのことを教えられて「そんなことは三歳の子どもでも分かっています」と言ったら、和尚に「三歳の子どもでも分かることが八十歳の老人になっても出来ない」と言われてギャフンとなったというのは有名な話です。
 
 しかし、考えれば私たちは上の話と同じことをしていると思います。例えば「照顧脚下」。脱いだ履き物を揃えるということはみんな知っています。が、実際に履き物をきちんと揃えることが習慣になっている人は案外少ないのです。それこそ、教えれば三歳の子どもでも出来ることでも大の大人みんなが出来ている訳ではないのです。
 
 私たちは日々、本を読んだり話を聴いたりして学びます。その中には毎日に生かすべきことも多くあります。しかし、そのことがどれだけ実践できているでしょうか。読書し聴いて学ぶべきことを知っても、それを実践しなければ意味はありません。「知ってる」だけで「してる」がなければ「知らない」と同じなのです。
 
 学んで知ったことが生きるというのは、そのことによって自分が「変わる」ことです。「君子は豹変す」というのはそれです。過ちに気づいたら速やかにそれを改めて面目を一新するのが君子のあり方です。知って変わる、それが大切なのです。それは我見我執に捉われていてはできません。我見を捨ててできることです。
 
 お釈迦様の教えを学ぶということは実にそれなのです。「耳に聞き心に思い身に(しゅ)せばやがて菩提に入りあいの鐘」という道歌があります。耳に聞くというのは聴聞です。聖賢の話に耳を傾け、聞いたことを心にとどめて反芻し、それを実践に移すことを教えた歌です。聞いただけではだめ、考えただけでもまだだめなのです。
 
 そう考えていつも思うのは素直な心の大切さです。耳に聞くというのは素直な心があってこそです。「聞く耳持たぬ」は我見我執があるからです。その我見我執を捨てて素心になった時、聴くことが、そして考えることが出来るのです。さらにそれを実践していくためには素直な心が一層大切なことは申し上げるまでもありません。

 


                    
                      「論語読みの論語知らず」