秋の日に №296

秋の日に №296
平成26年11月17日

秋の日に
    
  生きること (かな)(かな)しと 思ふ日の 重なるうちに 秋過ぎてゆく
 ひばりさんの「愛燦燦」に「人は哀しい哀しいものですね」という歌詞があります。人誰しも自分の人生を振り返れば、涙が出るほど懐かしく愛しいことと同時につらく悲しいことがあるに違いありません。もの思う秋の日、これも無常の身だからこそと思いました。人間、生きている限り喜びと同時に悲しみや苦しみから逃れることは出来ません。
    
     秋夜碧天月玲瓏   秋の夜空に輝く月と
     静謐万象在清風   清き風とにみな静か
     無常只不舎昼夜   けれども時の移ろいは
     行雲流水逝無窮   逝きて窮まることもなし
 
 晩秋の夜空に輝く月は神々しいまでに澄んでいます。その月を見ながら佇んでいると静かさが身に沁みます。音もなく渡る風のなかに一切のものが黒々と黙しています。あたかも時間が止まった世界のようにも思えます。しかし、時は決して止まることがありません。一瞬一刻たりとも止まることはありません。
 
 この秋、寺で伺うことにはつらい話が重なりました。長寿に伴う苦労困難がありました。人間関係の悩みがありました。その人間関係も近所とのこと、親子とのこと、すでに亡くなっている人とのこと、様々ありました。病の話もありました。まさに生老病死、四苦です。生きていればこその悩み苦しみです。無常の世界に生きるものの悩みでした。
 
 でも、思うのです。だからこそ人は生きる価値がある。人は四苦の中に生きるからこそ生きる意味があるのではないかと。人は苦しみ悲しみのなかで成長を遂げるのではないでしょうか。生は(くる)しみです。老病も苦しみです。死は悲しみです。でも、その苦しみ悲しみのなかにこそ人間の、その人の、魂の成長があるのではないでしょうか。
 
 道元禅師はこう言われています。「無常は迅速であり生死を明らめることが大事である。この道理を忘れず、この日一日、今だけの命と思って時をむだにせず仏道を学びなさい」と。無常を生きることが人間の修行なのです。

 



かなしみにたえるとき・・くるしみにたえるとき・・
あなたの眼のいろがふかくなり いのちの根がふかくなる 
                   みつを