教育は祈り №333

教育は祈り №333
平成27年 7月28日


教育は祈り
 
 教育は祈り、という言葉は、私が教員時代に辿りついた言葉です。私が養護学校教員になったのは33歳の時です。普通の人より10年遅れでした。しかし、養護学校というところは私にとって誠に有難く楽しいところでした。子どもたちに多くのことを教えられ、多くのことに気づかされました。私の人生はその気づきのお蔭に他なりません。
 
 その気づきの一つが、上にあげた「教育は祈り」ということでした。私はこの言葉を思い出す度に重度の障害児を前に呆然と佇んだ日のことを思い出します。私はその子を目の前にしてなすすべがありませんでした。自分の無力さに打ちのめされ言葉を失いました。その子に自分が何をしたらよいのか全く分からなかったのです。
 
 この子の生の意味は何か。この子にとって教育とは何か。自分はこの子に何が出来るのか。疑問ともため息ともつかぬ思いが胸をよぎりました。重い障害を持った子どもは、着る脱ぐ、食べる排泄する、座る寝る、これらの一切を他に委ねます。生活の一切を人任せにしている以上、その子どもは介助、援助がなければ確実に死ぬのです。
 
 そうした子どもたちに接しているうち、私は子どもたちが生き長らえているのは親の一途の愛であり、それを取り巻く人々の援助の力だと思い至りました。重度の障害児であればある程、そのご両親は子の命を守ることに必死でした。とりわけ、お母さんの愛情には心打たれるものがありました。それは祈りとしか思えませんでした。
 
 そして、気づいたのです。教育は祈り、だと。教育とは人を育てること。生まれた命を育てることこそ教育であり、それは祈りそのものだと。それは障害のあるなしではありません。すべての子どもは親の祈り、周囲の人の祈りで育つことに気づきました。生まれて来た命を祈りによって育てることが教育であると知ったのです。 

 人は祈りによって生きる。障害者、健常者ともに、私たちはすべてみな、両親を初め多くの人たちの祈りの力を頂いて生きているのです。決して自分一人の力で生きているのではありません。生かされているのです。私はいま「人生は祈り」と思っています。自分の人生と同時に他者の人生を祈りたいと願っています。

 
()まるる時の世界 三千(さんぜん)(くら)からん 南無観自在菩薩 
吾児(あこ)擁護(おうご)て 大蓮に()せしめたまへ   
                                菅原道真