灯(ひ)ともし頃 №351


()ともし頃


平成27年11月20日

 秋の日は釣瓶落とし、という言葉がありますが、いまは釣瓶で水を汲んでいる家はないでありましょうから、この言葉は死語になったかも知れません。死語と言えば、上の「灯ともし頃」という言葉もそれに近いでしょうか。でも、これは「灯りを(とも)す夕ぐれ」という意味ですから言葉の実体がなくなった訳ではありません。

 灯ともし頃という言葉は季節には関係ありません。が、景色として一番ぴったりするのはやはりいま、晩秋ではないでしょうか。私がまだ仕事をしていた頃、一日を終えて灯りが付いた家々を行く手に見ながら夕やみに包まれた道を帰ったことを思い出します。私はその秋の夕ぐれ、灯ともし頃が好きでした。

 でも反対に、晩秋のこの灯ともし頃は嫌いだと言う人もいます。私の友人がそうでした。寂しさを覚えると言うのです。その気持ちは私も分かります。私は家々の灯りにほのぼのとした温かさを感じましたが、友人は恐らくそれとは反対に、灯ともし頃に夕やみが迫る秋の寂しさを感じたに違いありません。

 話は飛躍しますが、人が寂しいと感じるのはどんな時でしょうか。春愁という言葉や前号で申し上げた思秋期という言葉を考えれば、人は春や秋に愁いを感じることが多いのかも知れません。愁いと寂しさとは心情的に少し異なるかも知れませんが、秋は季節的にも寂しさを含んでいるように思います。

 私たちが寂しいと感じるのは一つには心身の衰えがありますね。そして、もう一つは孤独感ではないでしょうか。それも帰るところがない漂泊の身となればその寂しさは一層の筈です。私が灯ともしの家に温かさを感じるのは、それが帰るべき家と思うからです。人は帰るべき家があってこそ寂しさから解放されるのでありましょう。

 山頭火に「秋のゆふべのほどよう燃えるほのほ」みんながかへる家はあるゆふべのゆきき」という句がありますが、漂泊の人であった山頭火が秋の夕暮れに燃えている火や帰り路を急ぐ人たちをどんな気持ちで見ていたかと思うと切ないものがあります。灯ともし頃、皆さんは何を思われますか。
 
   あかあかと 裸電球 吊り下げし
          村の雑貨屋 秋の夕ぐれ