ヨ ブ №359


ヨ ブ
平成28年1月25日 
 前号「信とは何か」を考えていて旧約聖書に出てくるヨブ記を思い出しました。ヨブ記のヨブは敬虔なる神の信者です。そのヨブがどうして悲痛極まりない苦難を与えられねばならなかったのか。それは確かに神が与えた試練でありました。しかし、ヨブは神を疑いませんでした。どんな不幸も神のみわざと思ったのです。

 ヨブは七人の男の子と三人の女の子に恵まれ、七千頭の羊、三千頭のらくだ、五百つがいの牛、五百頭のロバを持ち、沢山の下男下女を使うフスの国指折りの財産家でした。そしてその上、ヨブは信仰心と慈悲心に厚くその名声は国中に響いていました。神様が「ヨブは世に二人といない者である」とお褒めになったのも当然でありました。

 しかし、それを聞いたサタンが、ヨブが神を恐れ敬うのは自分の利害を考えてのことに過ぎないと言うのです。神はならば、とサタンがヨブに第一の試練を与えることを許します。ヨブはその試みによって子どもたちと牛、ロバ、羊を失いました。ヨブは驚きと悲しみに打ちひしがれながらも「これはみな神のみむねです」と言うのです。

 これを聞いたサタンは再び神に言います。ヨブは結局、自分の命を助けたいためだけなのですと。そして、ヨブは第二の試練によって悪疾に冒され、全身の噴き出もののために歩くこともできない苦痛を与えられます。そして妻さえが「神なんか呪って死ね」と罵るのでした。しかし、それでもヨブは妻を諭し神を恨むことはしませんでした。

 神はヨブが真実の信仰者であることを喜び、ヨブに再び以前に倍する富と健康と幸せを与えたと言いますが、私はこのヨブを思う度に「恩寵」という言葉を思います。無常とは変化です。その変化は自分にとって都合のよいことだけではありません。不都合なことも起こります。しかし、それさえ神のみむねと受けるのが信じるということではないでしょうか。

 前号でも申し上げました。神仏を信じる、神仏に帰依するというのは自分の一切をそこに投げ出すということです。すべてを恩寵として頂くということです。しかし、これほど難しいことはありません。不都合なことが続いた時に神仏を称えることが出来るでしょうか。正直、私にはまだその自信がありません。
 

    主は、愛するものをこらしめ給う
                  ~聖句~