平成28年3月20日
むろん原理を知れば、何の不思議もないのでしょう。放送局が電波として発信した音声や画像が各家庭に届き、その電波をテレビ・ラジオが受信して音声や画像に再現したのだということですから。しかし、私はなお目に見えない電波が同時に何十万何百万という家庭に届き、それが目に見え耳に聞こえるようになることが不思議に思えるのです。
しかし考えれば、これはお祈りと同じと思います。無言の祈りは目に見えず耳にも聴こえません。今日はお彼岸中日ですが、亡き人たちの魂も目にすることはできません。でも、音声や映像の電波がラジオやテレビで再現できるなら亡き人の声や姿も同じように見聴きすることが出来るのではないか。私たちにそれが出来ないのは何故なのでしょう。
断定的に言えることがあります。それは私たちが霊的存在に対する受信装置を持っていないということです。ラジオ・テレビが音声や画像を再現できるのはそれを受信できるからです。受信した電波を再現できる装置を持っているからです。となれば、私たちも霊的存在の受信が出来ればその信号を受けることが可能になるはずです。
思いますに、春秋のお彼岸、お盆等の供養は、この私たちが霊的存在に対する受信能力をつけるためにあるのではないでしょうか。目に見えない存在からの信号を受け取る力は簡単にはできません。日頃の訓練の他にお彼岸とかお盆とかいう年に何回かの特別な日の訓練を積み重ねていくことが必要なのではないでしょうか。
確実に言えることは、私たち生者、生きているものは死者との共同社会の中に生きているということです。「そんなことがあるはずはない。死者からの働きかけなんてない」と思うのは生者の世界しか見ていないからであり、死者からの信号を受信する力を持っていないからに過ぎないのです。不思議ではありませんか。
私は不思議でたまらない、誰にきいても
笑ってて、あたりまえだ、ということが。
~金子みすゞ~