死の受容 №403

死の受容
平成28年10月18日

 先達てあるお方から不思議な話を伺いました。そのお方はもう23年も前にご主人を亡くされているのですが、そのご主人にまつわる話なのです。もう半年前、四月のことだったそうですが、その方もいまだに不思議な思いが抜けないのでしょう。話しても分かって貰えることか不安ですが、とおっしゃりながら手紙を下さったのです。

 話はこうです。四月も終わりに近いある日、その方は朝からひどいめまいに襲われて起き上がることも出来ず、ひたすら目を閉じ身を縮めてめまいが去るのを待っていたそうです。すると、その時突然、「まるで映画のワンシーンのように鮮やかに」50年前の学生時代のある光景を思い出したというのです。

 その光景とは…。大学のキャンパスの木陰でその方とご主人が何か話していると、そこに近づいてきたご主人の親友Kさんの豊かな髪を爽やかな風がかき上げて行ったというのです。思い出した光景というのはそれだけ。まさに映画のワンシーンですが、その方はその時のKさんの清々しい笑顔と空の青さが目に染みたそうです。

 そして、その映像が消えた時、その方は“そこでやっと”「人は死ぬんだ。主人は死んだんだ」と思い知ったというのです。その方は「自分はそれまできっと主人の死をどこかで拒否していたのかも知れません」と自己分析されましたが、その通りでありましょう。その方はご主人の死から23年後に不思議な体験によってその死を受容できたに違いありません。

 この話を聞いて私は即座に思い出すことがありました。あの五年前の大津波で家族を亡くされた方の中には亡くなった人を現実に見るという体験をする人がいて、その体験をした人は一様に動くことが出来ない状況から一歩を踏み出すことが出来たということでした。それは死を受容できたからです。手紙を下さった方の体験はまさにそれだと思うのです。
 
 人が死ぬことは誰しも知っています。しかし、親しい人の死を受け入れることは難しいのです。皆さまの中にも同じような体験をお持ちの方がお出ででしょうか。人はみんな死ぬ。手紙のその方がそう実感されたという体験はご主人のためにもご本人のためにも喜ぶべき貴重な体験だったと思います。珍重珍重。

  生者必滅 会者定離

     The first breath is the beginning of death
     (呱々の声は死の始まり)



割れる裂ける №402

割れる裂ける
平成28年10月17日



 
 台風去って陽気一変、秋の涼しさになりました。あちこちにコスモスが風に揺れて咲いています。この花、日本の秋に相応しくまるで日本固有種のように思えますが、実はメキシコ原産、日本には明治時代に渡ってきたとは意外でした。花言葉が「調和」と聞けば、まさにその通り、日本の秋に調和したのだと思います。

 初めから余談になってしまいましたが、いつでしたか「花が笑う」ということを一番実感しやすいのが、コスモスではないかと申し上げたことがありましたね。実は先日、日清食品下関工場の観音様奉安二十周年祭でも法語の一句に「風に遊ぶ秋桜呵々として軽やかなり」と書きましたので「花が笑う」というお話をしたのです。

 で、その話というのが表題の「割れる裂ける」ということ。「花が笑う花が咲く」の「笑う咲く」は「割れる裂ける」が語源ではないかと申し上げたのです。これを一番イメージしやすいのが火山の噴火でありましょう。火山の噴火はマグマであれ水蒸気であれ、内に溜まったものが大地を割り裂いて噴き出たということですね。

 花も同じだと思います。ツボミに蓄えられた力が一気に割れて裂けて開いた状態、それを「花が咲く」というのでありましょう。「咲」の元々の字は「口」偏に「笑」。ですから、「咲」は、本来「咲く」ではなく「笑う」と読むのです。人が笑う、というのは、可笑しくて笑いたくなる感情が声になって口から噴き出たということですね。

 蓄えられた力が一気に放出されるというのは反面「解放」でもあります。本やレコードが発売されることを英語でリリース(release)と言いますが、まさにこの「解放」はリリースなのです。人の心、花のツボミに蓄えられた力が、一気に解放されるのが「笑い」であり「咲く」という現象を生むのです。

 実はこの「解放」は観音経に言う「解脱」でもあります。観音経には「皆得解脱」とか「即得解脱」とか何度も「解脱」という言葉が出てきますが、その解脱とは困難な状態から解放されることを言っているのです。どうぞ皆さまも大いに笑って咲いて苦しみや悲しみから解放されて下さい。

   世の中の 重荷降ろして 昼寝かな
            ~正岡子規~


送る迎える №401

送る迎える
平成28年10月10日


 
 先日のこのたより「お迎え現象」(№395)を読んでくれた学生時代の友人から「自分の死の折にも誰かがお迎えにきてくれると思えたら死がちょっと楽しみなりますね。その日まで私終いの極意を胸に大切に生きていこうと思いました」と手紙を頂きました。そう思って下さって大変有難いことでありました。

 たよりでご紹介した医師、奥野滋子さんが言われた私終いの極意は、「人との縁を大切にすること」「自分の生き方を肯定すること」「今を大事にすること」「捉われないこと」の四つでしたね。私はこの四つはまさに仏さまの教えそのものではないかと申し上げました。多くの人の看取りから生まれた貴重な言葉だと思います。

 ものはみな縁によって生じ縁によって滅するという真理にあって人との縁の大切さは言うまでもありませんが、実際はこれほど難しいものもありません。自分の生き方を肯定することも同じように簡単ではありませんね。今を大事にすることも捉われないことも同じです。これらはみんなトレーニング、修行だと思います。

 と思っているうち、お迎え現象を頂くためにもトレーニングが必要ではないかと思い至りました。それが表題の「送る迎える」です。「自分がしなかったことしてあげなかったこと」は「して貰えない」というのが私の持論ですが、それでいけば、臨終に迎えて貰いたいと思うならば自分がこの世でも送ったり迎えたりしてあげなければなりませんね。

 身近に言えば、家族の誰かが学校や会社などに行く時「いってらっしゃい」と送ってあげる。帰って来た時は「お帰りなさいと」迎えてあげる。それを笑顔でしてあげるということが自分の習慣になった時、初めて自分も家族から送って貰える、そして迎えて貰えるようになるのではないでしょうか。

 こう書きながら私はそれが出来ていたかと忸怩たる思いを拭いきれません。それでも私は敢えて皆さんにお願いしたいのです。家族であれ誰であれ、出かける人がいたら笑顔で送ってあげること、帰ってきた人はまた笑顔で迎えてあげること。これをトレーニングして頂きたいのです。いずれ自分がそうして貰えるように。


    送って行って送られて そのまた帰りを送って行って
    黄昏れた街・・
          ~島倉千代子「いつもふたりは」~





また「食(しょく)足(たりて)世(よは)平(たいらか)」 №400

また「(しょく)(たりて)(よは)(たいらか)
平成28年10月3日

     明澄青天深遠清    明るく清く空澄んで

     遊風秋桜呵々軽    笑うコスモス秋の風

     日清観音二十年    観音様のお祭りに

     祈平和社運隆盛    祈る繁栄世の平和

 

 上は日清食品下関工場の観音さま奉安二十周年祭の法語です。前回の十五周年祭は平成23年春四月でしたが、今回は澄んだ秋空の下、コスモスが風に笑ってそよぐ好時節。当観音寺がまたこの二十周年祭に携わらせて頂けましたことに有難く感謝したいと思います。

 前回申し上げたかどうか忘れましたが、私は日清食品という世界的な企業が観音さまを大事にされている会社であることに有難い敬意を覚えてなりません。それは創業者、安藤百福さんご夫妻の観音さまへの篤信によるものであったと思いますが、その信心を個人に留めず社として継承して下さっていることが貴いと思うのです。

 安藤さんは同時にその創業の過程で「食足世平」すなわち「食足りて世は平らか」という言葉を思い付かれました。私はこの言葉も観音さまのお導きではなかったかと思うのです。仏国土は平和でなければなりません。その平和な生活の基本は「食」です。安藤さんは「食糧は命の糧です。人の命を支えているのです」と言われましたが本当にその通りなのです。

 振り返ってこの日本はどうでしょうか。表面は平和です。しかし、その平和な日本でいま6人に一人の子どもが満足な食事が出来ていないという信じがたい事実があります。しかもこの数字はこの数年変わっていないのです。飽食と言われる陰にこのような事実があることを安藤さんはどのようにお思いになるでしょうか。

 私は今一度、安藤さんの「食足りて世は平らか」という言葉を、私たち自身に与えられた言葉として考えるべきだと思います。世界的にはさらに多くの人々が飢えに苦しんでいるのです。安藤さんの言葉から一人ひとりが食べ物の大事さ有難さ、共助共生の大切さを再認識しなければならないと思います。



      食品は平和産業です。                                     
             ~安藤 百福~