人それぞれの道を №417

 人それぞれの道を
平成29年1月18日

 実はまだつい先達てのことなのに、ずいぶん以前ことのように思えるのがプーチンさんの当山口・長門市訪問です。あれは一体何だったのでしょうか。県は警備上問題とされた建物の撤去を初め町中の美化清掃、学校給食ではロシア料理まで作って両国の理解親善に努めたそうで、関係者のため息に同情を禁じ得ません。 

 あの日は長門は雪でした。一目見ようと沿道で待つ人。その警備にあたる人たちをよそにプーチンさんは2時間以上も遅れて到着。当然押せ押せの予定を済ますと翌日はさっさと東京に行ったとのことに一体山口訪問にどれだけの意味があったのだろうと思われてなりません。ひょっとしたら「山口なんかに行きたくない」ではなかったかとさえ思われてきます。

 聞けば、プーチン大統領が各国訪問や会議に遅刻するのは常習とのことですが、客観的に言えばそれは自分を大物に見せたいという不遜でありましょう。相手の国、国民に対しては非礼極まりありません。そのプーチン氏が大の柔道好きとは何をか言わんや。技より前に心を学べと申し上げなくてはなりませんね。

 その点、私は大統領としてはオバマさんの方がはるかに誠実さがあると思います。昨年、広島を訪れた時の言葉にも真摯な自分の言葉がありました。むろんそれだけですべて良しとはいかないにしても核廃絶を掲げたアメリカ大統領としての真摯なる願いを覚えずにはいられませんでした。人は己の性向に従って人生を歩むのだと思います

       直線曲線迂曲線   この道あの道どの道も

       人人皆有各自線   人それぞれがそれぞれに

       人生苦楽在線中   泣いて笑って辿る道

       七転八倒辿一線   「花は苦労の風に咲け」

 上はこの年頭に思ったことですが、人が人それぞれに持つ性格や性向を基盤に生きている以上、その人生は人それぞれであり、誰一人として同じ人生を歩む人はありません。大事なことは自分の人生を真摯に一生懸命歩むことだと思います。人生に偽りやたくらみがあってはなりません。それは結局自分に返ってくるのですから。

   おそロシア 遅刻食い逃げ 毎度とは

「守る」ということ №416

「守る」ということ
平成29年1月17日

 最近、事件事故が起こる度に被害者や犯人と思われる映像が出されることが普通になりました。その映像は建物の中であったり街路であったりしますが、いずれにしても逆に言えば私たちは防犯カメラによって常にそれほど監視されている状態にあると言えます。肖像権うんぬんの前に監視社会になっていると言えましょう。

 昨年12月、クリスマス市にトラックが突入したテロ事件を受けて、ドイツ国内ではいま公共施設に防犯カメラを増設するよう求める声が高まっていると言いますが、ベルリン市は増設を拒否していると言います。東西冷戦時代がそうであったように、行き過ぎた監視社会は平穏な日常とは相容れない嫌悪すべきものがあったからでしょう。

 実はこれは映像だけのことではありません。マイナンバー法も同じだと思います。すでに法が作られ何かにつけてマイナンバーの提示が求められるようになりました。会社員の方は言うまでもなくでしょうが、私たちも市役所の届けや銀行での預貯金にこの提示が必要になってきています。やがてはかかりつけの医療機関にも及ぶことでありましょう。

さらに驚いたのは、昨年末強行採決で成立した例の「カジノ法案」の最も重要な施策は「来場者に対する徹底した個人情報管理」だというのです。ギャンブルに夢中になっているうちに個人データと人工知能(AI)によってその人の心の動きから行動の予測までが可能になるというのです(16/12/23 毎日新聞「経済予測」鈴木幸一氏)

 一向に止むことのないテロ事件や読み解きが困難な事件が増すに連れてこの人間世界は是非もなく監視管理社会になってしまうのでしょうか。それは21世紀を生きる人間にとっては希望のない世界です。私たち人間は観音さまだけが見ていてくださればよい。観音さまだけにすべてを見ていて頂きたいと思うばかりです。
 
 守るというのは、目(ま)・守(もる)。目でじっと守ること、見守ることが原意です。これこそが「観世音」さまなのです。常に私たち衆生のすべてを見守り下さり火急の困難に救いの手を差し伸べて下さるのが観音さまなのです。人間同士が疑いの目で監視し合う社会でなく観音様の守りの世界に生きたいと願って止みません。

 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音
 暮念観世音 念々従心起 念々不離心



「心のGP」宣言 №415

「心のGP」宣言
平成29年1月2日
 表題の「心のGP」の「GP」って何のことかご存知ですか。私が若い時、医学雑誌の編集に携わっていた頃は、この「GP」という言葉を聞くことがよくありました。「GP」とは「a General Practitioner」の略語、「開業医」を言います。もちろん、今でも開業医は沢山おいでですが、その意味は当時とは異なってきているように思います。
 
GP」とはそもそも「地域の人の病気を何でも()る医師。特に内科医」を言います。皆さんのご家庭はそんなお医者さんをお持ちでしょうか。どんな症状であれ、まずそのGPに診て貰い、その見立てで専門医なり何なりに行くのです。イギリスではこれが制度化されていてGPへの登録が義務付けられているそうですね。

 医療の専門化が進んだ現在は、初めから専門医に行くことが多くなって私たち自身にGP、家庭医の意識が薄くなりましたが、私は自分の体を全体的に知ってくれるという意味でGPというのは大切な存在ではないかと思います。自分の体をよく知ってくれている医師がいれば異変が生じた時の初期診断が適確になるに違いありません。

 私は同じように心にもGPが必要ではないかと思います。寺にいて伺う皆さまのお話は様々ですが、中でもよく聞くのは地域やサークルでの対人関係のこと、親子・夫婦の問題、病気等々、心に関係する問題です。これらは人間の宿命とも言うべきことながら、これが私たちの心を悩ます大きな原因であることを痛感するばかりです。

 人誰しも悩みのない人はありません。生きている以上、様々な問題、様々な悩みに遭遇せざるを得ません。その時、一人で悩むのではなくそれを誰かに話すことが出来ればそれだけで気持ちが楽になるかも知れません。ひょっとしたら、話すことによって解決のヒントを得ることができるかも知れません。

 私はその話し相手に寺がなりたいと思います。寺が「心のGP」になることを宣言したいと思います。私ができることは話を聴くことだけだと思います。でもそのことによって話して下さる方の気持ちが楽になり、そのことによって悩みを俯瞰する境地に至って下さったら嬉しいと思います。


  なやみは つきねんだなあ
  生きているんだもの
         ~相田みつを~

「見上げてごらん夜の星を」№414

「見上げてごらん夜の星を」
平成29年1月1日
 新しい年、2017(平成29)年になりました。皆さまどんな新年をお迎えでしょうか。この一年、健康で安らかな年であることが、すべての人の願いであると思います。私も切にそれを願っています。日本中の子どもたち、そして世界中の子どもたちが、更には私たちが心安らかに充実した一年であることを願わずにはいられません。

 しかし、その思いで振り返ると、改めて世界が平和から遠いことを思います。昨年、世界では様々な事件、変化がありました。フランスやトルコを初め、あちこちで起きた爆弾テロで多くの命が失われました。イギリスのEU離脱がありました。アメリカ大統領選では予想を覆してトランプ氏がクリントンさんを破りました。

 これら世界の動きを見ていると、模索され続けてきたグローバリズムという意識が、変化しているというより瓦解に向かっているのではないかと不安を覚えてなりません。イギリスのEU離脱はまさにそれですし、アメリカ大統領になるトランプ氏の言動も地球国家、世界平和という観点からははるかに遠いと思わざるを得ません。

 危惧される世界の状況は、端的に言えばファシズムの再来です。世界のあちこちで民族主義的な党派が目立ってきています。それは日本も同じではないでしょうか。今この時代にあって日本はどのくらい世界の平和に貢献できているでしょうか。残念ながら日本も世界平和とは遠い方向に行っていると思えてなりません。

 私はいま、この時代だからこそ、私たち一人ひとりが平和の心と平和への願いを新たにしなければならないと思います。私はそのために歌で平和の祈りをしたいと思います。私が思っている平和を祈る歌は、昨年亡くなった永六輔さんが作詞した「見上げてごらん夜の星を」です。この歌を平和を祈る歌にしたいのです。

「見上げてごらん夜の星を」が、一人からみんなに、みんなから世界中の人に、平和を祈る歌として歌われることを願って止みません。内戦が続くシリアの人々はもちろん、ISの人たちが歌ってくれることを願って止みません。そのためにまず日本の私たちがこの歌で世界平和を訴えたいと願って止みません。



見上げてごらん夜の星を 
ボクらのように 
名もない星が 
ささやかな幸せを 
祈ってる