死のための生 №421


死のための生
平成29年2月17日


毎年、涅槃会(215日)の度に遺教経を読み直し、その言葉の重さを感じていますが、ここ二三年はその中の「()すこと()うして空しく死せば後に(くい)あることを致さん」という言葉の真意を知りたいと願ってきました。死後の悔、死んだ後で後悔するというのは何を意味しているのかということです。

これについては以前このたよりでも申し上げました。お釈迦様は世界の常・無常とか死後の生存の有無など形而上学的な質問にお答えされなかったと言います。しかし、お答えにならなかったのは、それらのことを知らなかったからではありません。実は人間が死後どうなるかをご存じだったからこそ「死後の後悔」を言われたのだと思います。

そう思って改めて上の言葉の前後を読んで気づくことがありました。上の言葉の前には「常に当に自ら勉め精進してこれを修すべし」とあります。「これ」というのは、その前に出てくる言葉「所受の法」。お釈迦様の教えです。「修すべし」とは、教えを実践して身につけること、精進を言っています。

そしてまた、上の言葉の後には「我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるとは医の咎に非ず」とあります。お釈迦様は自らを良医に譬えられます。病をよく知る医師は病に効く薬を処方することができます。しかし、それを服すか服さないかは個人に委ねられます。導かれる人が教えに従うか否かも全く同じだとおっしゃるのです。
 
 この前後の言葉を改めて考えると「()すこと()うして空しく死せば後に(くい)あることを致さん」
という言葉は、表題「死のための生」、より丁寧に申せば「よい死のためのよい生」をおっしゃっていると思われてなりません。人生における精進が存命中はもちろん死後にとってどんなに大切かを言われているのだと思います。

 では、よい死のためのよい生の精進とは何でしょうか。私はそれこそが七仏通戒偈。よいことをする、悪いことはしない、心を清くする、だと思います。言うは易く行うは難し、のこの三つ。初めから完璧でなくてよいのです。悪事は懺悔して再びしないことを誓い善事はさらに意識して努めること、それこそが精進でありましょう。



                  耳に聴き 心に思い 身に修せば
                   やがて菩提に 入相の鐘