供養とは… №445

供養とは…
平成29年8月17日

 皆さまお盆は如何でしたか。最近は正月同様、子や孫が帰省することばかりに意味が片寄るきらいがありますが、むろん本来のお盆はご先祖様を苦しみから救うことを主眼とする仏事です。正しくは施食会(以前は施餓鬼会と言っておりました)と言う通り、ご先祖様初め有縁無縁の精霊にお食事を供えるのが習わしですね。

 しかし、近年はこの旧来の習わしが希薄になりつつあることを否めません。核家族化によって以前のように二代、三代の家族が一緒に暮らすということがなくなると、ご先祖様を筆頭にした縦のつながりがなくなり、お盆は本来の意味合いより一つの生活行事として捉えられるようになることも成り行きでありましょう。

 先日、新聞に上のことに関連した投書がありました。その方は「親から子どもに供養の意義、やり方が伝わりにくくなっている」とした後、供養には「伝統やしきたりだけではない、人として守っていくべき大切な何かがあると思う」と言っておられますが、おっしゃる通り仏事には一人ひとりが仏事を通して学んでいくものがありましょう。

 私はその一つが供養による死者との交流だと思います。供養とは具体的には美味しい食べ物をお供えすることですが、その根底にあるのは生者が死者に祈りの力を送るということです。俗に“念力”と言う言葉がある通り、祈りは力、エネルギーなのです。その力を死者に送ることこそが供養であると申し上げて過言ではありません。

 私たち生者は死者との通信手段を持っていません。生者と死者は感覚手段が違います。人間の五官では通じ合えないのです。その時、唯一交流の手段となるのが祈りなのです。なぜなら祈りがエネルギーだからです。私たちが死者を思う心、死者への祈りだけが生者と死者をつなぐ通路になるのです。

 上の投書の方は最後に「幼い頃からの墓参りなどの習慣を通し、遠いところから現実世界を支えてくれている何かとつながっているのかも知れない」と書かれていました。私もそう思います。死者への力送りという供養を通して私たちも死者から力を貰う。それこそが供養の本当の意味だと思います。



    いつの日か 私も先祖の 仲間入り
           供養でつなぐ 命の絆 

72年目の思い №444

72年目の思い
平成29年8月15日

 72年前の815日は終戦の日でした。暦には「終戦記念日」とあります。文字通り、太平洋戦争が終わった日です。しかし、この日を終戦と言わず「敗戦の日」と言う人がいます。当時の状況を考えれば敗戦と言う方が正しいと言うべきでありましょう。敗戦という言い方には真実を直視して枉げない心があると思います。

 しかし、その言い方はどちらにしても815日には誰しも共通する「これで戦争が終わった。平和が帰ってくる」という安堵と喜びがあったと思います。戦争の悲惨と苦しみから解放されることが何よりも大きな喜びと希望をもたらしたに違いありません。その気持ちをそのまま表したのが憲法九条ではないでしょうか。

 憲法九条に言う「戦争と武力の放棄」「戦力不保持」は、二度と戦争はしたくないという当時の国民にとって心からの願いであったはずです。これこそが悲惨な戦争の代償として私たちが辿り着いた世界平和への決意でありました。私たちはこれからもこの決意を守り続けていかなければなりません。この決意からブレてはならないのです。

 しかし戦後72年、戦争を直接体験した人たちが少なくなって戦争の悲惨な記憶は風化するばかりです。その一方で、歴史否定主義者やネオナチが支持を拡大しているという状況を見逃すわけにはいきません。私はこういう時こそ戦争の真実を直視する「敗戦」派に与して戦争の悲惨を忘れず憲法九条を守って行かなければならないと思います。

 いまこの憲法九条を改めようとする動きがありますが、言われているように、この九条に自衛隊を軍隊と明記するようなことになれば、現行の九条は全く意味をなさなくなります。それは平和の礎となってくれた戦争犠牲者、そして世界の平和を希求する私たちの願いを無残に打ち砕くことにしかなりません。

 国の形を決めるのは政治です。日本がこれからどんな政治によってどんな国になるのか。それは政治家を選ぶ私たちに掛かっています。憲法九条の世界の恒久平和を目指す国になるのか、状況の変化に捉われて武力を行使し戦争をする国になるのか、どちらを選ぶかは私そしてあなたに掛かっています。


    赤き蛾の 昼いでて舞ふ 敗戦日
                ~藤田湘子~

命の歌 №443

命の歌
平成29年8月10日

木も草も 蝶蝉鳥も それぞれに 命の歌を うたってる

 この夏はまた昨年以上に厳しい暑さが続きますね。地球温暖化の影響か、夏の暑さが年々厳しさを増しているように思われてなりませんが、寄る年波で暑さに対する力が衰える一方の私には近頃の酷暑誠に耐え難いものがあります。

 そんな中先達て、炎天に晒された敷石を歩く小さな虫を見ました。恐らくはその敷石もかなり熱くなっていたと思います。しかし、虫は平然とその敷石を渡り切ってしまいました。人間にすれば焼けた鉄板の上を這いずるような行動ではないかと思いましたが、何故その虫は人間が身震いするようなことが出来るのか不思議でなりません。

 毎年この時期同じように思うのが炎天に飛ぶ蝶です。蝶がどうして炎天をものともしないのか不思議でなりませんが、ふと、いや蝶にとっても炎天下を飛ぶのは大変なことなのかも知れない、優雅に飛んでいるように見えても蝶は熱暑を堪えて飛んでいるのかも知れないと思ったのです。平然と見えた上の虫も同じであったかも知れません。

     天心残月皓皓光     有明の月空高く

     院庭微風清爽涼     庭吹く風も爽やかに

     万草千木静謐中     静まり返るものが皆

     一切万物露堂々     命の歌をうたってる

 上の詩は炎天ではなく明け方の爽やかな風の庭を詠みました。まだ月が皓皓と照る暁の物音ひとつしない静寂にあっても木や草は生きてあることを歌い続けているのではないかと思われたのです。この地に存在するものは皆、いついかなる時も、その存在を歌い続けているに違いないと思われたのです。

 木や草にとっても鳥や虫や蝶にとっても快適な時ばかりではないはず。当然、夏の炎天が苦しみになることもあると思いますが、その苦しみに絶叫するのも命の歌に違いありません。私たち人間が嬉しい時には笑い悲しい時には泣くのと同じように草木悉皆、快適にそよぎ苦しみに絶叫するのが命の歌なのだと思います。



   めくるめく 夏の日差しは 容赦なし 
     地にあるものを 討ち平らげぬ

菊舎の遺言状 №442

菊舎の遺言状
平成29年8月8日

 皆さんは田上(たがみ)菊舎(きくしゃ)という俳人をご存知でしょうか。江戸末期、宝暦31753)年、現在の下関市豊北町()(すき)に生まれた女性の俳人です。恥ずかしながら私は全く知りませんでした。尼僧のこのお方、何と一人で諸国行脚をしながら俳諧はむろん、行く先々で和歌、漢詩、茶道、弾琴などを学んだという誠に向学心旺盛な文人だったそうです。

 私がその存在を知ったのは、先月一杯、下関市立歴史博物館で「女流文人 田上菊舎―江戸の女子旅―」という企画展があったからです。拝見して驚きました。男でさえ困難が多かった江戸時代に旅する俳人として北は山形から松島、南は長崎、熊本まで行脚しながら俳諧の道を生きた尼僧があったことに感銘しかありませんでした。

 菊舎、本名「道」は24歳の時、夫に死に別れて後、かねて親しんでいた俳諧の道に生きることを決意して萩の清光寺で出家以後、諸国行脚しながら俳諧だけでなく、文人としての教養を身につけて行ったと言いますが、その一つに「七絃琴」(全長120㎝前後の中国伝統楽器)がありました。菊舎は40歳の時に江戸で七絃琴を贈られたと言います。

 企画展の中で私がひと際関心を持ったのはこの七絃琴に言及した「往来書添(おうらいかきそえ)」でした。これは往来手形と一緒に持っていた個人的なメモですが、そこに自身万一の時は、携えている七絃琴を大阪にいる弟子、馬場栄子に送って頂きたいこと、七絃琴の中に納めている「七難消滅の誦文」を粗末に取り扱わないで頂きたいこと、の二点が記されているのです。

 この往来書添は菊舎60歳の時のものですが、これを遺言状としてみると、まず思うことは60という年齢です。菊舎が亡くなったのは75歳ですが、平均寿命3040歳と推定される当時の人にとって60という年齢は恐らく誰しもが死を意識する歳であったに違いありません。長寿化した現代とは死に対する意識がかなり違うと思います。

 また「七難消滅の誦文」を粗末にしないで下さいという言葉は、旅を守ってくれた誦文への感謝そのものと思います。これは七絃琴も同じでありましょう。分身とまでは言わずとも菊舎の生活の一端を支え、旅の慰みになってくれた琴に対する愛着と感謝があったからこその願い。菊舎は「一生感謝」の人だったのだと思いました。



  無量寿の 宝の山や 錦時
            ~菊舎辞世~