健康寿命 №450

健康寿命
平成29年9月19日

 厚労省が発表した今年915日現在の100歳以上高齢者は67824人。47年間連続最多更新だそうです。統計を取り始めた1963(昭和38)年には僅か153人であったこの100歳以上の方が10年前には3万人台になり、その10年後の今年は倍増ということになりました。この数、25年後には133000人、35年後には256000人になると推計されています。

 人口10万人当たりの100歳以上は53.43人ですが、これを都道府県別にみると、1位は島根の92.11人、以下高知、鹿児島、佐賀と西日本が多く、逆に低いのは埼玉の32.09人以下、愛知、千葉など西日本とは対象的にむしろ都会的な県が目立つのは、各県それぞれの人口構成が反映されているということでしょうか。

 しかし、いずれにしても長寿化になればなるほど、健康であるかどうかが問題であることは論を待ちません。それを表すのが表題の「健康寿命」です。いま日本人の平均寿命は男80.98歳、女87.14歳ですが、健康寿命(日常的、継続的な医療・介護に頼らずに自立した生活が出来る期間)は当然ながら平均寿命よりは低くなります。

 では、その健康寿命は何歳か。ニッセイ基礎研究所の村松容子さんの推計によれば、この健康寿命は昨年時点で男性72.14年、女性は74.79年。平均寿命との差は男性で8.84年、女性では12.35年にもなります。つまりは人生の最晩年、男性で9年近く、女性は12年以上を健康で過ごすことが難しいということなのです。

 さて、皆さまこれを知ってどうお考えになりますか。人間みんな最後は病気で死ぬんだ、仕方ないだろ、と諦めるか。何とかして最後まで元気でいてコロリと逝きたいと思うか、それこそ様々だとは思いますが、そこで私から一つ提案があります。それは晩年は自分の1%を誰か人のために使って頂くことです。

 この1%提案は諏訪中央病院名誉院長の鎌田實さんが言われていることです。それが健康寿命に良いかどうかは分かりません。でも、恐らく心の健康には役立ってくれると思います。たとえ1%でもあなたが他人のために生きてくれたなら誰かが幸せになる、誰かが勇気づけられる。そしてあなたが元気になると思います。
 
 
1%は
   誰かのために
   生きなさい
         ~鎌田實~
 

人生家・人生人 №449

人生家・人生人 
平成29年9月18日

 先達てのこのたより№440(一生勉強一生青春 )で相田みつをさんのことを申し上げました。相田さんのご長男、相田一人(かずひと)(相田みつを美術館長)さんのご講演を伺って、私が知らなかったみつをさんご自身の若い時の体験を知り、その体験が相田さんの詩と書の原点になっていることに感銘を受けたことの報告でした。

 その中で申し上げましたが、相田さんはご自分を書家とも詩人とも名乗ったことはないと言います。今では「書家・詩人」と言われることが普通と言いますが、みつをさんご本人はそう名乗ったことはなく、講演会などで書家とか詩人と紹介されると一瞬戸惑ったような顔をされることさえあったそうです。

 伺って、そのたよりにも書きましたが、相田みつをさんは、書を人生にしたのでもなく詩を人生にしたのでもなく、自らの人生を人生にしたのでありましょう。書家、作家、画家、陶芸家という言い方に倣えば「人生家」、詩人、歌人、文人、楽人という言い方に倣えば、「人生人」という呼び方が一番ふさわしいと言えるのではないでしょうか。

 相田一人さんが編まれた「相田みつを 肩書のない人生」という本があります。みつをさんの人生はこの言葉に尽きると思います。書家でも詩人でもなく人生家・人生人として一生を過ごされたのが相田みつをという人だったのだと思います。一人さんおっしゃるように「肩書のない生き方を敢えて自ら選択した」人だったのです。

 前号で「人生という商売」を再考しながら思い出したのが相田みつをさんでした。前号では人は誰しも「人生業者」だと申し上げました。それをさらに言えば、私たちは皆「人生家・人生人」だということです。私たちの商売は生きること。身過ぎ、世過ぎの仕事が生きることに直結することがあっても基本は人生家・人生人なのです。

 繰り返して申し上げます。私たちは皆自分自身の人生を生きることが商売です。この商売に真面目に一生懸命努力することが私たちの商売なのです。遅れてもいい、休んでもいい。ただひたすら正直に偽りなく自分の人生を歩む。それこそが「人生という商売」をする人と言えるのでありましょう。
 
 
 
自分が自分にならないで 
 だれが自分になる  みつを
 

また「人生という商売」 №448

 
また「人生という商売」
平成29年9月17日

 いつでしたか、このたよりで「人生という商売」ということを申し上げましたね。久保田早紀さんの歌に「トマト売りの歌」という曲があって、その歌詞に「気楽なもんさ人生なんて商売は」とあるのを知って、人生イコール商売とする考えに驚きというか、そういう考えもあるのだという感銘を受けたのでした。

 しかし考えているうち、事実は人生を商売と考える方が正しいのではないかと思うようになりました。八百屋、魚屋、肉屋、衣料品店、金物店、会社員等々、世の中には様々な商売職業がありますが、実はこれらは皆人生という商売のための身過ぎ世過ぎであり、私たちの本当の商売は人生そのものではないかと思えてきたのです。

 として、この世に生まれてきた人誰しも「人生業者」ということになると、私たちはこの商売で何を売り買いするのでしょうか。ものや労働時間など金で売り買い出来るものは身過ぎ世過ぎとなれば、人生業で扱う商品は金では買えないもの売れないものに違いありません。どんなに欲しくともどんなに上げたくても金では売り買い出来ないものです。

 私はそれこそが「まごころ」と「祈り」だと思います。困っている人を助けたいと思う気持ち、悲しんでいる人を慰め励ましたいと思う気持ち、親兄弟友人知人すべての人が元気に幸せに過ごしてほしいという祈り、世界が平和になるようにという祈り。これこそが私たち人生業者が商売とするところではないでしょうか。

 つくづく思います。人は一人では生きて行かれません。多かれ少なかれ誰かに迷惑をかけ誰かに助けられています。そして自分もまた多かれ少なかれ誰かに迷惑をかけられ誰かを助けています。金では買えず売ることも出来ない心と祈りを人生業として商売することこそ人生そのものではないかと思うのです。

 「トマト売りの歌」の歌詞の一番は上に書きましたように「気楽なもんさ人生なんて商売は」ですが、二番の同じところは「お人好しの笑顔には深いしわがある」となっています。人生という商売、気楽な反面そうはいかない面もありますね。どちらにしても一生続くのがこの商売。皆さん一緒に頑張りましょう。


   泣きなさい笑いなさい 
   いつの日かいつの日か 
   花を咲かそうよ  
       ~喜納昌吉「花」~
 

人生は劇 №447

人生は劇
平成29年9月10日

 人生に対する私の思いの一つは「人生は劇」と言うことです。この思いは皆さんもきっと同じだと思います。人は誕生以後それぞれの時代にそれぞれの役割を果たします。学校に上がれば順々に児童、生徒、学生と呼ばれ、勤めれば会社員となり、結婚すれば夫、妻となり子どもが出来れば父親母親、さらには祖父祖母となります。

 私たちは誰しも人生その時々の役割を果たすことになりますが、それはその役割を役者として演じることに他なりません。学生の時は学生の本分を果すことに、会社員となれば与えられた仕事に努めること、同時に部下上司という配役を演じることになります。夫婦も親も同じですね。夫を演じ妻を演じ、親を演じることが求められます。

 このように考えると、人の一生はその折々の役割を役者として演技すること、つまりは人生という舞台で自分が主役の劇をすることと言えます。まさに「人生劇場」に他なりません。と考えると、この人生劇場で如何に自分が役者として真剣かつ納得のいく演技をし得るかどうかが人生のカギになるのではないでしょうか。

 先日、福井県永平寺町にある師匠の寺に参りました時、法戦式(ほっせんしき)という行事があったのです。法戦式というのは、僧侶になるために必ず通過しなければならない大切な儀式です。修行僧の先頭に立つ首座(しゅそ)と呼ばれる者が、修行僧の質問に即座に答えるというものですからそれはそのまま首座の力量が試されることになります。

 しかし、この法戦式は今は完全に儀式化していてあらかじめ用意してある問答に従って進められるのです。しかし、であれば一層、大切なことはその法戦式を劇と捉えて互いに役者として演じることではないかと思うのです。問答する者が一瞬の隙もない迫真の演技をすることこそ法戦式ではないかと思うのです。

 そこでは問者答者共にためらいも恥じらいも越えなければなりません。双方が役者になり切って声を張り上げて問い、答えなければなりません。一瞬のゆるみもためらいもなく、見ている者が息を吞むような演技が出来なければなりません。それはまさに自分の人生に共通することではないでしょうか。
 
 
 
  端)役者の俺ではあるが
  早稲田に学んで波風受けて 
  行くぞ男のこの花道を 
  人生劇場の幕が開く    <人生劇場>

サルスベリとカラスウリ №446

サルスベリとカラスウリ
平成29年9月8日

 九月になりました。朝夕涼しくなってホッとですが、サルスベリはまだ元気よく咲いていますね。庭木にしている方が多いようで、あちこちの家に赤い花白い花が見られます。この花、百日紅(ヒャクジツコウ)の名の通り、花の期間が長いことが特徴ですが、実際には4,50日あたりらしいです。でも、長いことには変わりありません。

 で、今日は何でサルスベリとカラスウリなのかと申しますと、二つの植物の名前のことなのです。以前、笑ってしまった川柳に「サルスベリ誰か見たのか滑るとこ」という傑作がありましたが、まさにこのサルスベリは樹皮がツルツルで如何にも滑りやすそうに見えるのでサルも滑るに違いないと見立てたのです。

 一方、カラスウリは824日の誕生日の花になっているように、今が花の時期ですが花はあまり目にすることがなく、秋も遅い頃に熟した赤い実が木にぶら下がっているのを見ることが多いですね。で、カラスウリという名は、赤い実をカラスが残したのだろうと見立てたのです。でも実際にはカラスがこの実を食べることはないようです。

 と言うことは、このサルスベリとカラスウリ、サルにもカラスにも関係ないのに名前に使われた訳です。サルとカラスがそれを迷惑に思っているかどうかは知りませんが、私たちの日常にも見かけで判断することって案外多いように思います。そのことが迷惑にならなければ遊びで済みますが、落とし穴になることもありますから注意を要します。

 諺の「人は見かけによらぬもの」は、それを戒めたのでありましょう。大抵の人は「見かけによる」のですが、中に「見かけによらない」人がいます。同じように私たちはとかく「思い込み」「早合点」「速断」になりがちです。物事を判断するにはよく考えることが大切ですね。急がば回れ、です。

            <九州北部水害救援援助募金御礼>

 九州北部水害救援援助募金有難うございました。全部で20316円になりました。寺分と合わせ25316円を818日、毎日新聞西部社会事業団に送りました。ご協力に感謝してご報告申し上げます。有難うございました。


  ネコジャラシは文字通り。
  学名エノコログサ
  「()(コロ)(クサ)」も穂が子犬の尾に似ているからだよ。