お遍路で考えたこと④甘 受 №460

甘 受   お遍路で考えたこと④
平成29年11月30日

 今回のお遍路をとても楽しみにしたのにお出でになれなかった方がありました。お遍路を計画してくれた神奈川のKさんの奥さん、Yさんです。Yさんとは以前一度ご一緒してその健脚ぶりに驚嘆したことがありますが、まだ超多忙な仕事現役のため自由に日を取ることが出来ずお遍路の度に残念がっていらしたのです。

 ですから、今回仕事の段取りをつけてお遍路にお出でになれることを大変楽しみにされていたことは申し上げるまでもありません。ところが、なのです。出発の前日、叔母さんがお亡くなりになったのです。一も二もなくYさんはお遍路を断念されました。傍目にも楽しみにされていたお遍路の断念は察して余りあります。

 人生三つ目の坂“まさか”とはこのことでありましょう。思いもしなかった突然の出来事、それも悲しい知らせに楽しみにしていたことが一遍に吹き飛ばされたのです。その時のYさんの心情如何。Yさんは即座にお遍路を断念されました。内心思うことはあったかも知れません。しかし、潔くお遍路を止められました。

 いつでしたか自慢で申し上げましたね。まだ30代の頃、私は「雨降れば雨に濡れ風吹けば風に吹かれる」という言葉を思いついたのです。後に相田みつをさんに「雨の日には雨の中を風の日には風の中を」という言葉があることを知ってびっくりしたのでしたが、私は上の自分の言葉を「甘受」ということを考えていて思いついたのです。

 人生にはまさかがあります。そのまさかがつらいまさか、悲しいまさか、不都合なまさかであった時、私たちはそれにどう向かえばよいのでしょう。嘆きと恨みで「何で今、この自分に」という愚痴も出るでありましょう。当然と思います。

 しかし、その時「よし、分かった」とそのまさかを潔く受けることが出来ればそれこそが甘受です。私が思う甘受は仕方なくではありません。それを自らのこととして積極的に受けるということです。と考えて、まさかの時、私がそれをできるか。全く自信がありません。Yさんに敬意申し上げるばかりです。


 そのとき どう動く
          ~相田みつを~

スミさんご逝去 №459

スミさんご逝去
平成29年11月17日

 1020日、当観音寺の最高齢ご信者、梶原スミ様が逝去されました。享年1055ヵ月。最後の一ヵ月余りはお食事ままならずでしたが意識は最後までしっかりとして観音さまへの感謝のうちに旅立たれました。まさに大往生。そのスミさんのご生涯とその生涯にわたる敬虔なるご信心に心からの敬意と感謝を申し上げたいと思います。

 スミさんは明治455月のお生まれです。明治45年は730日に大正になっていますからご誕生から2か月余りが明治。名誉ある最後の明治人という訳です。以来大正昭和平成という四つの時代を生きてこられました。日数で言えば38369日。この一日一日を真剣に大切に生きられたことに敬服しかありません。

 スミさんは二つの点で私たちのモデルになって下さいました。その第一は観音信仰です。お詣りしておっしゃることはいつも決まって「観音さまのお蔭です。有難う有難う」という感謝の言葉。その心境は阿弥陀信仰の妙好人同様、観音さまに守られているというより観音さまに同化されていたのだとしか思えません。

モデルのもう一つは長寿です。長寿の時代になって百寿者も多くなりました。しかし、同時に健康であることは簡単ではありません。その上にスミさんは高齢者が持つという「今が一番幸せ」という多幸感、老年的超越に到達された方でした。それはまさに長寿のモデル。憧れる長寿のお手本でありました。

      青葉若葉位一時    春の若葉は時のまま

      紅葉黄葉復一時    秋の紅葉も移りゆく

      万物流転無昼夜    すべてのものは休みなく

      有情無情逝無涯    果てない旅をくり返す

 上の秋法要の法語、奇しくもスミ様のご生涯とこれからを申し上げているようになりました。スミさんの人生も私たちの人生も一日一日です。過ぎた一日は帰らず明日の一日はまだ来ていません。今この時この一瞬こそが私たちの人生です。この一瞬のほかに人生はなくこの一瞬を永遠に繰り返すのが人生なのです。合掌。
 
 
 
 
いつ死んでも ありがとうや
        大西良慶
 
 
 

お遍路で考えたこと③「たっすいがはいかん」 №458

「たっすいがはいかん」 お遍路で考えたこと③
平成29年11月16日

 上の「たっすいがはいかん」ってどういう意味かご存知ですか。今回、高知のお遍路に行ってあちこちで見た言葉なんです。もちろん土佐弁ですから高知県出身の方ならご存知ではないかと思いますが、私は何のことか見当がつきませんでした。

 あちこちで見たと申し上げましたが、何回も見ているうち、これがキリンビールのコマーシャルであることが分かりました。でも意味が分かりません。で、地元の人に聞いたのです。して分かりました。「たっすい」は「張り合いがない、ひ弱い、気力がない」という意味。つまり「根性がないのはいかん」という意味だったのです。

 ビールにあてはめれば「たっすい」は「飲みごたえがない」ということになります。となれば、「たっすいがはいかん」は「ガツンと来るビール飲めよ高知人だろ」となりますね。余談になりますが、このコピーのお蔭で高知のキリンビールはアサヒのシェアを奪回したということですから効果絶大だったことになります。

 意味が分かって、この言葉はいかにも土佐の国だと思いました。土佐の言葉に「いごっそう」というのがあります。これは「快男児、頑固で気骨のある男」を指して言いますが、この言葉には「酒豪」という意味もあるそうです。豪快に酒を飲む快男児にふさわしい酒こそ「ガツンと飲みごたえがある」酒なのでしょう。

 もう一つ、土佐には「はちきん」という言葉があります。「はちきん」は「男勝りの女性」を表す言葉です。「いごっそう」が高知県男性の県民性を表す言葉なら「はちきん」は高知県女性の県民性を表す言葉。「いごっそう」「はちきん」共に言動明快、酒を好み、頑固に突き進む一本気な性格をよく表す語感を持った言葉だと思います。


 昨年、このたよりで「自由は土佐の山間より」という植木枝盛の言葉を紹介したことがありましたが、明治時代、土佐が自由民権運動の中心地さながらであったのも「いごっそう」「はちきん」の県民性の賜物ではなかったでしょうか。混迷の現代日本、「いごっそう」「はちきん」の再びの活躍を期待して止みません。
 
「たっすい」がはいかんけんど
「てんくろう」(ずる賢い)もまっこといかんよ

お遍路で考えたこと② 「Don’t worry」 №457

 「Don’t worry」  お遍路で考えたこと②
平成29年11月8日

 今回歩いていて感じたことの一つは、歩いている人が少ないということでした。一昨年でしたかお遍路開創1200年とかの年は歩き遍路の方に沢山出会いました。今年はそれを過ぎたということか殆どというくらい会うことが稀でした。

 そんな中で出会ったのがオランダからという女性二人連れでした。一人は消防署勤務という40代と思われる方。消防士ではなく内勤ということでしたが大柄で体格よくがっちりした方でした。そしてもう一人、仕事は聞き忘れましたが中肉中背の方でした。この二人連れとは二日目の宿でもお会いして話を聴くことが出来ました。

 そのお二人がお遍路で気づいた発見が、上の「Don’t worry」(心配ない、大丈夫)だと言われるのです。外国の人がお遍路するのは容易ではないはずです。お一人は二回目とのことで、札所間の距離と行程の高低差を記したガイドをお持ちでしたが、それがあっても実際に遍路道を辿るのは易しいことではないはずです。足が痛いとも言っておいででした。

 そんな中での「Don’t worry」は、二人のどちらかがもう一人に言った言葉かも知れません。あるいは自分が自分に言いきかせたのかも知れません。恐らくは心身両面でその言葉を言わなければならない状況があったに違いありません。慣れている私たちでも時に足の痛みや疲れを覚えるのですから当然でありましょう。

 考えてみればこれは人生の言葉ですね~。何か困難なこと、苦しいこと悲しいことに遭遇した時、そこから脱出できるのは「大丈夫」という言葉、そしてその思いではないでしょうか。これもまた「魔法の言葉」かも知れません。「Don’t worry」は、自らを、そして相手を励まし勇気づける言葉であったに違いありません。

 お二人はお遍路のよいこととして四国の景色、人情の温かさを言っておられました。四国の景色に「ホッとする、癒される」というのです。外国の人にそう聞かされて自分たちが忘れかけていた日本の美点を改めて知る思いでした。ひょっとしたら歩き遍路文化の逆転現象が起きているのかも知れません。
 

なんくるないさ~

お遍路で考えたこと① また「人生即遍路」 №456

また「人生即遍路」  お遍路で考えたこと①
平成29年11月1日

 先月1078日、高知県6カ寺のお遍路に行って参りました。昨年5月の高林寺様のお遍路最終回から一年半。今回は神奈川のKさんが企画して下さいました。今回もよろよろ歩きながら考えたこと、聴いて頂ければと存じます。

 表題の「人生即遍路」はいつだったかも紹介申し上げました。山頭火の言葉です。この言葉、遍路の札所何か寺かで見ることが出来ますが、今回伺った第33番雪蹊寺には門前の石柱にこの言葉が彫られています。それを見る度、山頭火にとってもお遍路は孤独感や寂しさを味わう旅であったのだろうと思えてなりません。

 実は私もお遍路に孤独の寂しさを覚えることがあります。毎度と言ってもよいかもしれません。そして、こう思うのです。人生が遍路であり、遍路で覚えるものが孤独感や寂しさならば、人生は孤独の寂しさ、と言えるだろうと。みんなと一緒のお遍路でありながらふっと寂しさを感じるというのは、人生が持つ孤独、寂しさを感じることではないかと。

 私の思いの一つは「人生は旅」ということです。旅と人生には共通するものがあります。その一つが寂しさではないでしょうか。自分自身、これまで何回かの旅を経験して実感したのは、旅はその本質に寂しさを持っているということ。何人か一緒の遍路であってもふとした瞬間に感じる寂しさというのは人生の孤独感ではないでしょうか。

 山頭火が「人生即遍路」と言った時の「遍路」は寂しさと同義語ではなかったでしょうか。山頭火に「また見ることもない山が遠ざかる」という句がありますが、一人黙然と歩む旅は嬉しいこと楽しいことよりも人生の寂しさを覚えることの方が多かったに違いありません。そう考えると「人生即遍路」という言葉が胸に刺さる思いがします。

 人は一人では生きられません。親子兄弟夫婦そして友人知人。私たちは自分の周囲の人たちに助けられ励まされて生きています。でも人生にはそれぞれ孤独の一面もあります。人生の中で自分しか関われないものを持っています。それこそが人生の寂しさの淵源でありましょう。さあ今日も人生の旅です!
 
   幾山河越えさり行かば寂しさの
   ()なむ国ぞ今日も旅ゆく
             ~若山牧水~