「心のGP」宣言自省 №464

「心のGP」宣言自省
平成29年12月30日

今年年頭、「心のGP」宣言を致しました。GPすなわちかかりつけ家庭医に身体を診て貰うと同じように悩みの相談役を持って頂くのもよいのではないかと思って、その役を今年は意識的に出来たらと思ったのでした。そしてあっという間に一年。振り返って恥ずかしながら宣言が口ばかりであったことを白状しなければなりません。

 まず第一に“宣言”と言いながら、その思いを伝えることが不十分でありました。結果、以前から折々お話を伺っている方以外に新たに相談を頂いたりお話相手になったりするということが多くはありませんでした。むろん、これは多ければよいという類のものではありませんが、私の努力不足が大きかったことは否めません。

 上のことは今後の課題ですが、もう一つ、悩みの解決に自分がどれほど関われるかで力量の不足を痛感させられることが多々ありました。むろん、「話す、話を聴いて貰う」ということ自体がヒントになることも多いのですが、話を伺うことはしてもそれ以上に私がヒントを提供することはなかなか困難でありました。

 その理由の一つにはご自分で納得して頂くしかないものもあるからです。生活上のこと、それが自助共助公助のどれかに該当するものであればヒントも見つけやすいのですが、老いなど不可避なことは人それぞれ自分で決着の了解点を見つけて頂かなくてはなりません。お話しているうちに気づいてくれることがあればラッキーですが…。

 お話の中で多いのはやはり人との関係、対人関係ですね。私たち人間が生きていくうちでこれが大きな悩みであることを痛感させられます。近所づきあいのこと、所属しているサークルや会での人間関係、夫婦親子関係など様々ですが、問題の難しさと解決の難しさは一通りではありません。だからこそ人間関係が修行なのでしょうか。

 人が生きていく上には多くの困難が伴います。嬉しさもあれば悲しみもあります。楽しいこと都合のよいことだけとは参りません。苦しいこと悲しいことに遭遇した時、一番にして頂きたいことはそれを誰かに話すことです。まず話すことが癒しと再起につながると思います。自省を込めてまた来年です。
 
 
 
 
悲しみ、苦しみは人生の花だ。
           ~坂口安吾~
 

永眠と逝去 №463

永眠と逝去
平成29年12月17日

 毎年、11月も半ばを過ぎると年賀欠礼のはがきを頂きますね。「喪中につき…」という例のはがきです。先達て今年頂いたはがきを見ていてふと気づくことがありました。はがきには申し合わせたように「永眠」という言葉が使われているのです。思わずへぇーっでした。ということは「永眠」は喪中はがきの常套語なのでしょうか。

 ところで、この「永眠」という言葉に皆さまはどんなイメージをお持ちでしょうか。ひょっとしたら「安らかな眠り」とお考えの方が多いのかも知れませんね。しかし、私はどうもこの言葉に馴染めないのです。文字通りならば「永眠」は「永遠の眠り」ですよね。私は死というのは決して永久の眠りにつくことではないと思うのです。

 念仏者が往生するという極楽浄土だって眠っているわけではないでありましょう。私が考える死は人間(肉体)の世界から精神(霊魂)の世界に移動するということ。つまり、肉体修行の後も霊的魂的な修行が続くということ。眠ってはいられないというのが真実だと思うのです。私が「永眠」に馴染めないのはそこなのです。

 「永眠」は英語では「rest」と言い、これはdeathdie)の遠回しの表現とあります。この死の遠回しの別の言い方に「pass away」がありますが、これは「逝去」に近い言い方ではないかと思います。逝去の「逝」も「去」も共に「ゆく」であり、「pass away」も「away=あちら」)に「pass=ゆく」で移動することを意味しているのだと思うのです。

 もう一つ、この逝去に似た言葉に「遷化」があります。この言葉は今は「せんげ」と読んで「高僧の死」を言うことが一般的ですが、「せんか」と読めば「人の死」の意味になります。いずれにしても「遷」は「移る、よそに行く」という意味ですから「遷化」は「逝去」によく似た言い方と言えるでありましょう。

 皆さんは死という現象をどのようにお考えでしょうか。唯物論的に考えれば死は無に帰することであり残るもの継続するものは何もないということになるでしょうが、私は輪廻転生の立場から次の生があると思いますし、次の生までの間は精神の修行が続かざるを得ないと思っています。死は移行だと思っているのです。

  私たちの霊的・魂的存在は、
  最後の死から新しい誕生までの間は霊界にあり、
  そしてその霊界から降下してきたのです。 
          ~ルドルフ・シュタイナー~

ムンクの叫び №462

ムンクの叫び
平成29年12月12日

 いきなりお尋ねですが、マタドーレ(闘牛士)はどうしてあの赤い布(ムレータ)をひらひらさせるかご存知ですか。とむろん、赤い色で牛を興奮させるのさ、とおっしゃる方がいると思いますが、実はあの赤い色は観客を興奮させるのが目的。何と牛は白と黒と灰色しか色を識別できないのだそうです。

 でも皆さん、皆さんは赤い色に興奮しますか。赤を「燃えるような」とか「火のような」と表現すれば興奮するような気もしますが私はいまひとつ実感できません。シュタイナー教育のシュタイナーは「落ち着きのない子供には赤い壁の部屋が良い」と言っていますが、それは見る色に対して心は補色、赤で言えば緑をつくるという考えからです。

 先日、私はその意味である体験をしました。静かな山で紅葉を見ていた時のことです。「静かなり静かにあればなおさらに心のうちに聴く叫び声」 あたりが静かであればあるほど心の中では叫び声を上げているような不思議な感覚に捉われたのです。あたかも見る色と心に作られる補色のように、静かさとは真逆のものが心にあるという思いでした。

 そうしたら何と生物学者の福岡伸一さんが同じようなことを言っておられました(ムンクが聞いた「叫び」11/23朝日新聞)。その中で福岡さんは、これまでご自分が関わった何百匹もの実験動物の解剖の瞬間に見たものは、教科書に見られるような整然としたそれとは「全く異なる、生々しい混沌が口を開いて咆哮している」姿だと言われるのです。

 そして、さらにこう言われます。「そこ(解剖された実験動物のお腹)から聞こえるのは世界に充満する声のない声、ムンクが聴いたという、耳を覆いたくなるような自然を貫く果てしのない叫びなのである」と。福岡さんが実験動物の解剖で聞いた声のない声こそムンクが聴いた叫びだという指摘に驚かざるを得ませんでした。

 私はこの福岡さんの指摘に宇宙の深淵を見る思いがします。ムンクが聴いたのは自然を貫く大きな果てしのない叫び、そして福岡さんが聴いたのは生々しい混沌の咆哮。そのどちらもが宇宙の真実なのではないか。精神的な画家と気鋭の生物学者が時を経て奇しくも感じ得た真実のように思えてなりません。
 

  秋はあかるくなりきった 
  この明るさの奥に 
  しずかな響があるようにおもわれる
                ~八木 重吉~

紅葉吟詠’17 №461

紅葉吟詠’17
平成29年12月1日

 先日1123日、今年も長門市俵山木津の西念寺さんの紅葉を拝見に参りました。今年は見頃を過ぎて多くが散ってしまっておりましたが、門前のイチョウは見事でしたし紅葉もそこかしこに風情を楽しむことが出来ました。そんな中での拙詠数首、その折の思いを交えながらご披露申し上げたく存じます。

    午後の陽を受けていよいよ透き通るいてふ黄葉の風に揺らぎぬ

    午後の陽にあざやかさ増す濃き紅葉泣けとばかりの青空の中

 上の二首、一首目は傾きかけた日の光に透き通るようなイチョウを詠みました。散りゆく前の美しさというのでしょうか。散る寸前の葉が風に揺らぐ姿は胸に迫るものがありました。その意味では二首目も同じです。真っ赤な紅葉に透けて見える青空を見ていると、泣けてきそうに目に沁みるものがありました。

    森閑ともの音ひとつせぬ谷にかすかに揺れる木漏れ日のあり

    紅葉散る森の小径を歩むとき我にささやく声聴く気する

    音立てず微かに枝を揺るがして白き冷たき風吹いてゆく

 今年もあたりは静かそのものでした。その静かな小径の斜面に木漏れ日が見えました。日が差し込む小枝の揺らぎででしょう。その木漏れ日がかすかに揺れていました。それを見ながら歩いているとふと誰かが何かが自分にささやくような気がしてなりませんでした。

    もみじ道かそけき音に歩みつつ思ひの家の来し方行く末

    もみじ踏み歩む心に聴こえくるオーイオーイと若き日の歌

    今年また紅葉見ながらしみじみと思ふ思へば遠くへ来たと

 今年はなぜか若い頃のことが胸をよぎりました。もう滅多に歌うこともなくなった若い頃の歌が瞬間ふと懐かしく思い出されました。

一首目「思ひの家」は「思ひ」の「ひ」を「火」にかけて「火の家」つまり「火宅」、現世という意味の古語です。最近自分が時間的にも空間的にも思ってもみなかったところに来ているという気がしてなりません。
 
   思えば遠くへ来たもんだ
  この先どこまでゆくのやら
              ~唄・海援隊~