節々に支解するとも… №473


節々に支解するとも…
平成30年2月17日


 二月涅槃月。ご存知のようにこの15日が涅槃会でした。当観音寺でも涅槃会には遺教経を読むことを習わしにしていますが、この遺教経はお釈迦さまの最後の教えであるだけに読んでいて胸に迫るものを感じることがあります。お釈迦さまが最後の力を振り絞って教えを説かれたことに有難さを思わずにはいられません。

 折々に思うその教えの中で今日は表題の「節々に支解するとも…」という御文を考えたいと思います。遺教経ではその教えの一つひとつに「(なんだ)()比丘(びく)」という呼びかけで始められていますが、その4回目の呼びかけにこの言葉が出て来ます。全体はちょっと長くなりますがその一部分を次に記しましょう。

 「汝等比丘、若し人あり来って節々に支解(しげ)するとも、當に心を(おさ)めて瞋恨(しんごん)せしむること無かるべし、亦當に口を護って(あく)(ごん)を出だすことなかるべし、もし()(しん)(ほしいまま)にすれば即ち自ら道を妨げ功徳の利を失す、忍の徳たること持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり、よく忍を行ずる者は有力(うりき)大人(たいにん)と為すべし…」とおっしゃるのです。

 お釈迦さまは、もし誰かがあなたの両手足をバラバラに(節々に支解)することがあっても(いか)りや恨みを持ってはいけない、ひたすら忍べとおっしゃるのです。忍の徳こそが持戒苦行に勝るものであり、そのことが出来て初めて有力の大人と言えるのだとおっしゃるのです。皆さん両手足をバラバラにされて怒り恨みせずにいられますか。

 私はこのところを読むとき、国の平和ということを合わせ考えるのです。むろん、遺教経は修行する人に呼び掛けているのですから怒り恨みを持たずというのは修行としておっしゃっています。しかし、同時に一つの国が他国に侵略されて国という形がなくなってしまった時にもひたすら耐えることを言われているのかという気がするです。

 国の平和については様々な考えがあります。しかし、お釈迦さまは国の平和についても恨まず忍ぶことをおっしゃったのではないか。私たちの憲法9条が掲げている「戦力を持たず武力を行使せず」とはこのことではないかと思われてなりません。それこそが憲法9条の平和ではないでしょうか。
 


   国権の発動たる戦争と、
   武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、
   永久にこれを放棄する。
            ~憲法9条~