どうなる日本 №488

どうなる日本
平成30年5月30日 アメリカンフットボールの試合で日大選手が反則タックルして関西学院大の選手にケガを負わせた事件の顛末に暗然たる思いを禁じ得ません。非を認めるどころか平然とウソを言う日大監督の会見に腹が立つより悲しみが先になりました。しかし、いまの日本はこの日大監督が決して特異な例ではないことに国の行く末を思わずにはいられません。


 この事件でまず驚いたのは日大アメフット部が戦時さながらの状況にあったことです。反則タックルをした選手は行為が反則であることは承知していました。しかし、監督の指示通りそれをしなければ部員として認められないという恐怖が反則タックルをさせたとすればそれはまさに戦時下の兵士の心境そのものだったと言えましょう。

 日大アメフット部が絶対的な監督の下にあってコーチも部員もそれに口出しも逆らいも出来ない状態であったとすれば部はナチズム・ファシズム同様の独裁体制にあったということです。それこそ今どきと思いますが、その信じられない現実が意味するものは独裁体制が決して過去のものではないということでしょう。

 事件の顛末の中で私が唯一救いを感じたのは反則行為をした日大の選手が己を捨てて潔く真実を語ってくれたことです。実行を指示した監督やコーチに支えられることなく孤独の決断をせざるを得なかった選手の心境はいかばかりであったでしょう。反則行為には責任があります。しかし真実を語った勇気は褒められるべきだと思います。

 片や一方の監督とコーチは無惨としか言いようがありません。反則を指示したことはないと言い逃れに終始して関東学連に除名処分されました。当然でありましょう。監督とコーチはスポーツマンシップを持っていませんでした。加えて非を認めて詫びる率直な潔さもありませんでした。無惨としか言いようがありません。

 誠に残念ながら日本はいま政治も官僚も全く同じ状況にあると思います。恐らく官界も政界も独裁体制にあるのでしょう。 おかしいと思ってもそれを口にせず従っているのではないでしょうか。これは生き方の問題。ウソがまかり通る国がどうなっていくのかと考えると只々不安になります。
 
 義を見てなさざれば、過ぎてのち悔ゆ
             ~雲居道膺~



 

無縁精霊供養 №487

無縁精霊供養
平成30年5月23日
 私たち僧侶が供養でお経を読む時は必ず最後に回向(えこう)(もん)を読みます。回向文というのはお経が誰のために読まれたかを明らかにし、供養の対象になった方にお経そして法会の功徳を振り向ける(回向)という目的があります。こう申し上げると語弊がありますがお経は意味なくは読みません。誰かのため何かのためという理由があるのです。

 これは皆さまも供養でご納得と思います。特に年回忌の供養は特定の故人のためになされますね。供養には年回忌のほかにお盆や春秋の彼岸供養などがあって、こちらはどちらかというと先祖代々供養が先になるように思います。しかし、特定の人であってもなくても供養は普通には自分とつながりのある縁者(有縁)を対象にすることが多いでありましょう。

 何でまたこんな話かと申しますと、実はこの観音寺の法要の折にしている塔婆供養に必ず「無縁の精霊」の供養をして下さる方がおいでなのです。有縁無縁という言葉は一つには仏の教えに縁があるかないかということですが、供養で言う有縁無縁は供養する人とつながりがあるかないかということになりますね。

 とすると、無縁の精霊に供養をして下さる方は自分に縁のない方の供養をして下さることになります。確かにお寺の「檀越(だんのつ)先亡(せんもう)累代(るいだい)()(ぎん)」の回向には「有縁無縁三界万霊法界(ほっかい)(がん)(じき)等に回向す」という言葉があり、その時はその通り「有縁無縁すべてのみ霊と全世界の衆生に回向」するのですが、それを個人でして下さることに敬意なのです。

 いつも申し上げていることですが、供養というのは生者が死者に祈りの力を送るということです。死者は生者の祈りの力を自らの力にするのです。とすると、供養してくれる縁者がいない死者こそ供養して貰うことを切望していると言えるのではないでしょうか。無縁精霊の供養をして下さる方の有難さはそこにあります。


 死者の供養は決して死者のためばかりではありません。この人間世界は生者だけの力で成り立っているのではなく私たち生者は死者からの力をも頂いているのです。であればあるほど無縁精霊の供養がどんなに大きな意味を持っているか図り知れません。どうぞ皆さまも時に無縁精霊に思いを致して下さい。
 

   
    無償の愛、これを「無縁の慈悲」という

 
 

線香の煙 №486

線香の煙
平成30年5月17日
 線香の煙を見ていてふと思いました。この煙の昇り方は偶然なのだろうかと。むろん、線香の煙の昇り方は毎日違います。ある時は驚くほど高く真っすぐに立ち昇っていることがありますし、ある時はまるで雲のように中空に棚引いていることもあります。どちらもその姿を見た瞬間はハッとする思いがしてなりません。

 しかし、どんな昇り方であれ線香の煙の姿は偶然か必然かと考えると、私は偶然ではないと思われてなりません。線香の煙の昇り方はその時の室温や空気の動きのあるなしによるのでありましょう。室温は季節によってはむろん同じ季節でも毎日異なっているはずです。空気の動きは外に風が吹いているかどうかでも違うでありましょう。

 と考えると、線香の煙の流れる方向や高さはその時々の室温や空気の動きによって決まる。つまりは線香の煙の形は決して偶然によるのではなくすでに線香に火が付けられる以前に決まっていると言えると思います。煙がどんな立ち昇り方をするか、それはその日の室温や空気の状態によって必然的に決まっていると思うのです。

 線香の煙に限りません。私たちの人生に起きる様々な出来事についても同じことが言えるのではないかと思います。生きていれば私たち一人ひとりに様々なことが起きます。自分にとってよいこと嬉しいこともあれば困ること悲しいこと悔しいこともあります。それらの出来事を偶然と思うか必然と思うか、人それぞれだと思います。

 しかし、出来事を偶然と思うか必然と思うか、その差は大きいと思います。偶然と思えばよいことの時は喜ぶのはもちろんでしょうが、悪いことの時には運の悪さを嘆き怒るに違いありません。しかし、起こるべくして起きた必然と考える時にはたとえ不都合なことであってもそのことが持つ意味を考えるに違いありません。

 私は人生に偶然はないと思っています。自分の人生に起きることは必ず理由があって起きるのであり、その起きたことは必ず意味を持っていると思います。特に不都合なことこそが人に新たな境地をもたらすのではないでしょうか。必然の意味はそこにあると思います。人生は必然。珍重珍重。

   果三祇に満ちて道初めより成ず
   (無限の時間の修行の結果、
    道は初めより成じている) 
            ~大智禅師~

守ろう9条 №485

守ろう9
平成30年5月3日
 今年は日本国憲法が施行されて71年になります。世界平和が人類の悲願であるならば、その悲願の達成にいち早く戦争の放棄を掲げた第9条は世界に誇るべき条文でありましょう。日本がこの71年間戦争をせず日本人もとより他国の人を武力によって殺さないことが出来たのはまさにこの憲法9条のお蔭なのです。

 しかし、この守るべき9条がいま改憲の危機にあることは皆さまもご存知と思います。現政権がこの憲法9条を変えようと“企んで”いるのです。現在の9条の一項と二項はそのままに9条の2をつくって、そこに自衛隊を明記しようというのです。皆さんは一項と二項がそのままなら別に問題はないとお思いですか。

 実は自民党改憲案の欺瞞性と狡猾さは一項と二項を残すという点にあるのです。現在の条文をそのまま残すならば問題はないではないかと思う人が必ず出てくるでありましょう。自民党改憲案はそれを目論んでいるとしか思えません。私たち国民を騙すことを意図しているのです。ずる賢いというより卑怯そのものです。

 3日の毎日新聞にこの自衛隊明記の賛否を訊ねた世論調査の結果がありました。自衛隊明記、反対が31%、賛成が27%であったそうです。その差は4%。賛否拮抗しているということでありましょう。しかし、賛成の人たちの中には上に述べたように「自衛隊を付け加えるだけなら問題はない、むしろそれがいい」と思っている人がいるに違いありません。

 騙されてほしくないのはそこなのです。自衛隊を明記するということは決して明記だけに留まらないのです。自衛隊を明記すれば一朝有事の時にはこの自衛隊が前面に出てしまいます。法律の恐さはそこにあります。法律は一旦成立すると一人歩きしてしまうのです。自衛隊明記はその危険を持っているのです。

 自民党改憲案のずるさはそこにあります。改憲を主張する議員らは当然そのことを承知しているはずです。でなければ議員とは言えません。それをあえてするということは国民をバカにし騙すということでしょう。皆さん、どうぞ騙されないで下さい。9条を守ることは自分の孫ひ孫を守ることなのです。




またまただよ。
「平和をあなたにもたらすことができるのは、
あなただけだ」 
              ~エマソン~