象徴天皇陛下 №515

象徴天皇陛下
平成30年11月26日

 先達てのたより「陛下のご信念」(№510)で天皇皇后両陛下が平成の30年間、平和日本の象徴として世界平和のために尽力して来られたことを申し上げましたが、その後、毎日新聞の広岩近広(客員編集委員)さんが1026日同紙で「象徴天皇の原点」と題して象徴天皇の源泉を考究されているのを読みました。

 広岩さんはまずこう言われます。「平成の30年は天皇陛下が象徴としての務めに精励された歳月だった。陛下はこの30年間で、平和日本の象徴天皇像を確立した。平和の祈りを込めた慰霊の旅を続ける陛下の姿は誠心誠意、全身全霊の形容がふさわしい」と。そして「この源泉はどこにあるのだろうか」と言われます。

 広岩さんはその原点は昭和28年、皇太子であった陛下が昭和天皇の名代として英女王エリザベス2世の戴冠式に参列するためにお出でになった初外遊にあると言われます。敗戦から8年、日本が主権を回復したサンフランシスコ条約から2年というこの時、19歳であった皇太子殿下が平和日本をアピールする使命を担ったと言われるのです。

 そしてその通り、陛下は皇太子として「欧米の訪問先で軍国日本の影を取り除く役目を果たされた」と言います。チャーチル首相主催の午餐会では陛下への理解が深まりすべての出席者が武装を解いたのだそうです。広岩さんが陛下が“平和日本であってこその象徴”との思いを強く刻んだに相違ないと言われるのも頷けます。

 繰り返して申し上げますが、陛下はこの平成の30年間、世界平和を祈って慰霊の旅を続けてこられました。平和日本の象徴として全身全霊を傾けてこられました。そして来年五月、次の天皇になられる皇太子さまが陛下と同じように平和日本の象徴としてあり続けて下さることを強く望んでおられるに違いありません。

 いま政権与党の自民党はしきりに改憲を目論んでいますが、その改憲案には象徴としての天皇ではなく「元首」を復活させています。それは旧憲法の軍国主義そのもの、先の戦争に何も学んでいない恥ずかしい発想によるのでありましょう。繰り返して申し上げます。私たちは陛下の心を心として平和を守らなければなりません。
 
 「平和日本の象徴天皇像を
  陛下が確立されたことはまぎれもない」
            ~広岩近広~
 

 
 
 
 
 

続「お迎えを受けるには…」 №514

続「お迎えを受けるには…」
平成30年11月25日

 先日のこのたより「お迎えを受けるには…」(№508)で「お迎え現象」を体験した人が例外なく穏やかな最期を迎えるということを申し上げましたが、これをお読み下さった神奈川県のKさんがご自分の体験感想をお寄せ下さいました。そのご指摘になるほど最もと共感を覚えましたのでご紹介させて頂きます。

 Kさんはこう言われるのです。「今の時代の葬儀は多くが自宅ではなくセレモニーホールで通夜、告別式が極めてシステマティックに執行され、遺族側も弔問客も会話をすることはなく一定時間で坦々と経過していますが、これは双方にとって一種“気楽”な展開です」と。“気楽”な展開という指摘、言われてなるほど、と思いますね。

 Kさんは続けてこう言われます。「以前なれば恐らく遺体を前に(多分)ダラダラとお悔やみのほか故人の話などを続けたのでありましょう。この“ダラダラ”は実はお互いにとり非常に大切な時間だったのではないでしょうか。寝ている遺体にとっても。こういう一見、無駄なやり方が捨象されている葬儀は多忙な現代社会の一種の知恵なのでしょうが…」と。

 Kさんは上のことを最近伺った隣人の葬儀の折に感じたと言います。先日のたよりにも書きましたが、いま亡くなる人の8割が病院という現実があります。その現実がもたらしたものは死を忌まわしいものと忌避し、死を儀式化商業化することでした。以前は身近であった死が他所事化した結果がKさんの上の指摘だろうと思います。

 申し上げていることですが、死は次の生の始まりです。肉体の死が人間の死ではありません。命あるものは死ぬ、というのは生物としての身体です。しかし、霊的存在としての人間は永遠の魂を持っており、肉体に宿った魂が生まれ変わり死に変わりを続けていくのです。それを輪廻転生と言うのです。

 死をもう一度身近に取り戻すこと。それがお迎えを頂くために最も必要なことではないでしょうか。誰一人避けることが出来ない死を以前のように身近なものにし子が親を孫が子を順に送ること。単なる儀礼ではなく淋しさ悲しさを露わにする別れこそお迎え現象の基本ではないでしょうか。
 
 
人の世は 命の順に お送りし
    私もいつか お迎え頂く
 
 

回光返照 №513

回光返照
平成30年11月23日


      振り返ることはないんだ自分の死    熊本・坂の上の風
 
 先達て、といってももう先月末のことになりますが、上の句が毎日新聞の中畑流万能川柳に載っていました。作者はむろん選者にとってもこの川柳はそうだという共感があったに違いありません。私自身その共感に共感する思いがあることを否めませんでした。

 人間死んだらどうなる。これは誰しも思うことですね。この時、唯物的に考えるなら物質から独立した霊魂とか精神とかはありませんから肉体の消滅によってすべて無に帰することになります。上の川柳は恐らくその立場からの句でありましょう。意識が高度に組織された物質(脳髄)の所産と考えるならば肉体の死の以後の自分はありません。

 しかし、輪廻転生の立場から考えるとどうでしょう。仏教では解脱しない限り生あるものは迷いの世界である三界六道を輪廻しなければならないと考えられています。ということは、私たちは解脱しない限り意識的な個として生死を繰り返さなければならないということになります。私はこの立場です。人生一回で終わりとは思っておりません。

 人生ただ一回ならば道徳も倫理も無視できませんか。いや一回だからこそ道徳を全うしたいという殊勝なお方もいるに違いありませんが、多くの人は好き放題やり放題でいいと思うのではないでしょうか。私たち人間の人生がただ一回なのか、意識的な個としての人生が続くのかという違いが人生を考える分かれ道になるように思います。

 表題の「回光(えこう)返照(へんしょう)」という言葉は道元禅師が書かれた「普勧坐禅儀」にあります。「須らく回光返照の退歩を学すべし」という文言ですが、この「回光返照」というのは我が身を振り返るということです。進歩でなくて退歩。よくよく自らを振り返って自分が何者であるかを見極めなさいというのがこの「回光返照」なのです。

 神秘学では人間は死後、自分の一生をパノラマのように見た後、過ごしてきた人生が自分にとってまた周囲の人にとってどんな意味を持っていたのかと反省する時を過ごすと言います。私はそれが真実だと思います。私たちは永遠の修行者として常に自己を振り返り、反省の後に新たな生を頂くのだと思います。珍重。

 

 あるものは()()に生まれ 
 悪しきをなせるものは悪処(あしき)にゆき
 行いよきものは福処(よき)にゆき
 諸漏(まよい)のつきたるものは涅槃(さとり)に入るなり

また「いてふまんだら」 №512


また「いてふまんだら」
平成30年11月17日

 いつでしたか境内のイチョウが黄葉していくさまを見てそれがマンダラそのものだと申し上げたことがありました。今年もまたそのイチョウがまだらに黄葉していくのを見ながら同じような思いが致しました。一本のイチョウの黄葉が全世界の私たち人間、いや全宇宙に存在するすべてのものを表しているように思えたのです。

 全世界を表す「(じん)十方界(じっぽうかい)」という言葉があります。簡単に言えば東西南北の四方をさらに二分しての八方に上下を加えれば十方。これで左右上下あらゆる方向を捉えることが出来ますね。まだら黄葉のイチョウの姿はまさにその尽十方界を象徴していると言えます。黄葉の一片一片が全世界の私たち一人ひとり。それが一つの命の根に繋がっているのです。

 マンダラとはそのことです。私たちは大いなる何者かに生かされてそれぞれがそれぞれの修行に励むというのが私たちの人生です。それはひとり人間に限りません。イヌもネコもスズメもカラスもそしてイチョウもサクラもみな同じように修行を続けているのです。イチョウが春若葉するのも秋黄葉するのも修行なのです。

       公孫樹黄葉毎秋    いてふは秋にもみぢして
       百年不変散美舟    百年変わらず葉を散らす
       衆生万物復同様    我等衆生も同じこと   
       修行永遠歩青丘    修行は一生限りなし

 私たち一人ひとりは年齢も性別も住んでいるところも仕事も違います。それぞれが自分のなすべきことをして毎日を送っています。でもどこで何をしていようと、たとえ病のために入院していようと生きている限りは生きることが修行なのです。怒って泣く。楽しくて大笑いする。これが私たちの修行なのです。

 こう考えると、この地球上に存在するものはすべて修行しているのだと捉えることが出来ますね。ひょっとしたら生き物のみならず土や石ころに至るまでがそうなのかも知れません。となると、またチコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねぇよ」言われないように気を付けなくてはなりませんね。ご用心ご用心。



秋くれば 紅葉(もみじ)黄葉(もみじ)の 木々たちの
  年毎なせる 修行(つとめ)我もぞ