目指せプロ №530 

目指せプロ  
平成31年3月25日

 もうすぐ4月、進学や就職を間近にしている人はそれぞれの希望に胸を膨らませていることでありましょう。どうぞその今の思いを大切に皆さん果敢に船出して頂きたいと願って止みません。進学にしても就職にしても不安がつきまとうことは当然です。しかし、それに臆することなく新しい一歩を踏み出して頂きたいのです。

 このお願いに加えてこの度は初めて仕事に就く方に私がお願いしたいことがあります。それが表題の「目指せプロ」です。実は最近、ある会社に日にち指定で品物を送ってくれるよう依頼したのですが、その日にちが全く無視されて届けられたということがありました。指定の日に意味があった私からすれば残念だったことは言うまでもありません。

 上の手違いがどの段階で起きたのかは知りませんが、少なくも受注者がチェックしそれを配送に伝えれば配送日を無視することは防げたのではないかと思います。とすると、どちらかの段階でチェック出来ていなかったということになります。チコちゃん流に言えば「いい加減な仕事してんじゃねーよ」ではなかったでしょうか。

 いま国会で審議中の厚労省の「毎月勤労統計」の不正問題は不正を承知しながら不正をしていたと言いますからチェック洩れどころではありません。統計に携わる者としての自覚欠如としか言いようがありません。この国はこの十年来とみに自分が携わる職業に対する意識、プロ意識が著しく低下したと思えてなりません。

 本題に戻ります。新しく仕事に就かれる皆さま、どうぞ与えられた仕事に一生懸命取り組んで下さい。自分の仕事は何をする仕事かを考えて下さい。何をどうすればその仕事を達成することが出来るのか考えて下さい。ミスなく仕事をするにはどうすればよいのか考えそして工夫して下さい。それはいい加減な気持ちで出来ることではありません。

 仕事のプロになること。新しく仕事に就かれる若い方々に私はそれを望んで止みません。仕事のプロを目指すこと。それは簡単にできることではありません。しかし、その努力は仕事だけにとどまりません。 その努力は間違いなくその人の人生に関わってきます。仕事のプロは人生のプロになることが出来るのです。
 
 
ただ、返す返す、初心を忘るべからず
            世阿弥
 

 

また「出生前診断」を憂う №529

また「出生前診断」を憂う
平成31年3月17日

 出生前診断のこと、このたよりでも何回かその問題点と危険性を提起してきましたが今回改めてその危険性を申し上げたいと思います。この32日、日本産婦人科学会の理事会が新型出生前診断(NIPT)の施設条件を大幅に緩める案を了承したというのです。これによって条件を満たせば産科医院でも検査が可能になり検査施設は倍増するとも言われます。

 我が国では2013年に始まったこの検査、これまでは産科医と小児科医が常勤すること、遺伝の専門外来があることなどの条件を満たす総合病院が認可施設となっていましたが、この度日産婦は従来の認可施設を基幹施設とし、今回の条件緩和で検査が可能となる産科医院等を連携施設と位置付けて診断の拡大を図ろうとしているのです。

 日産婦はこの条件緩和の理由に認可外施設の存在を挙げています。いわば闇で行われる検査をなくすためには認可施設を増やすことが必要ということでありましょう。確かに認可外の施設で相当数の検査が行われているのではないかと見られ、そこでは検査結果の説明が不十分で検査を受けた妊婦が戸惑う事態が起きていると言われます。

 しかし、それでは日産婦の思惑通り認可外施設での検査が減少すればそれでよしと言えるのでしょうか。私はこの検査の問題点はそれではないと思います。この検査の一番の問題は検査で陽性と判断された人のうち実に9割が中絶をしているということにあると思います。毎回繰り返して申し上げますが、私は中絶を選ばれる方を非難する気持ちは全くありません。

 繰り返しますが、問題はこの診断の陽性者の9割が中絶を選んでいるという事実です。この事実は出生前診断についての十分な説明や陽性者に対するフォローアップが十分でないことを意味しているのではないでしょうか。認可外施設の検査をなくすことも必要でしょうが日産婦が意識しなければならないのは陽性者への援助ではないでしょうか。

 私が最も危惧するのはこの検査が命の選別にしかなっていないという実態です。陽性者とその周囲が中絶することを何とも思わなくなった時にはこの人間社会から障害者も老人も排除されることが当たり前になるに違いありません。私たちはそんな社会が来ることを認めてよいのでしょうか。これは私そしてあなたの問題です。
 
 
木を見て森を見ず
 

 

象徴天皇考 №528

象徴天皇考
平成31年3月14日
 日本国憲法は前文のあとに「第一章 天皇」があり、その第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とありますね。でも、皆さん、この「象徴」とは何かと考えたことがありますか。国の象徴、国民統合の象徴って何だと思いますか。

 日本国憲法が公布されて十か月後の1947年(昭和22年)8月に文部省によって発行された「あたらしい憲法のはなし」には、この象徴ということを「何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを“象徴”ということばでいいあらわすのです」と説明しています。

が、国がどんな状態であるかに関わらず象徴であるとすれば私はそこに違和感を覚えざるを得ません。同じ憲法が言う「国際平和主義」「民主主義」「主権在民」が日本であると言うならば天皇はその象徴として存在しなければならないと思うのです。そして国民はその象徴天皇に倣って世界平和と民主主義を守って行かなければならないと思います。

 しかしその一方、私は日本という国は憲法に言うことのほかに象徴とすべきものを持っていると思います。それは「祈り」です。日本という国は古来自然の恵みとその脅威に感謝と畏れを忘れずその思いを祈りとしてきたと思います。「祈りの国」として存在してきた日本を象徴するものこそ「祈り」ではないでしょうか。

 その意味で現天皇・皇后両陛下はこの30年間、象徴天皇として祈りに徹して下さったと思います。祈りの国日本の象徴として世界平和を祈り国の安寧と人々の幸せを祈り続けて来て下さったと思います。先達ての天皇陛下在位30年式典での「象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」というお言葉に頭下がる思いを禁じ得ません。

 陛下は上の式典の最後にも「わが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と言われました。私たちはこの象徴天皇に倣って世界平和と人類の共存を祈りその実践に努めなければならないと思います。私は新天皇の時代になっても日本と日本国民が祈りの国祈りの国民であり続けることを願って止みません。
 
ともどもに(たひ)らけき代を築かむと
諸人(もろひと)のことば国うちに()
 
        ~皇后陛下~
 

重い選択 №527

重い選択
平成31年3月9日
 37日の毎日新聞一面トップに「死の選択肢 医師提示」という大見出しのショッキングな記事がありました。「透析中止 44歳女性死亡」と続く中見出しの伝えるところ、昨年8月、東京の公立福生病院で、医師が人工透析治療を止める選択肢を提示し、治療中止を選んだ女性が一週間後に死亡したというのです。

 皆さん疾うにご存知のように人工透析治療というのは腎不全になった人が腎臓に代わる血液透析などで老廃物や毒素などを取り除く治療法です。我が国では33万人を越える人がこの人工透析を受けており、それによって日常生活はむろん仕事などの社会生活を支障なくこなしている方も多いことはご存知でありましょう。

 しかし、重篤な疾患を併せ持っている人や透析自体が大変な苦痛になるという人にとっては透析治療が延命にしかならないということもありましょう。報道されたケースがこのどちらかに該当したのかどうかは分かりませんが、上に申し上げましたように医師側から治療中止の選択肢が示され中止を選んだ女性が死亡に至ったのです。

 女性の透析治療に関わった公立福生病院の二人の医師が「透析をやらない権利を患者に認めるべきだ」と言うのに対し日本透析医学会など医療関係者の多くは「医師の独善だ」「医師の身勝手な考えの押し付けで医療ではない」などと批判的であり、8日の続報には、「精神的に不安定な患者に生死の判断を問うことは無理」という患者としての意見もありました。

 毎日新聞8日の続報によれば公立福生病院ではすでに201317年の間に「透析せず」提案を受けた人のうち20人が透析治療をしない「非導入」を選んで亡くなっているそうですから44歳の女性が初めてのケースではなかったということになります。いずれにしても自らの生死を決める重い選択、皆さんはどう考えでしょうか。

 医学医療の進歩で私たちは長寿の時代を生きることになりました。一面それはめでたいことではありますが、その反面は死にたくても死ねないということでもあります。そんな時代にあって意志的な死も含め生死についての考えが変化していくのではないかと思えてなりません。重い課題です。
 
 
死ぬときぐらい好きにさせてよ
          樹木希林