同行(どうぎょう)二人(ににん) №534

同行(どうぎょう)二人(ににん)
平成31年4月21日

 小中学生の皆さん、今日はお大師さんの日ですね。お大師さんは「弘法大師」。生前の名を「空海」と言いますが、その空海さんは若い頃四国中を歩いて修行を積んだと言います。その歩かれた跡が四国八十八か所、お遍路の基になったのですね。四国四県にまたがる八十八か所を全部回るとほぼ1200㎞。これを歩いて回ると50日ほどは掛かりましょう。

 歩いて回るお遍路は決して楽ではありません。回る札所(お寺)はその多くが山の上にありますからお遍路というのは山登りと言う方が当たっています。時には一日のうちに二つの山を登ったり下りたりしなければなりません。中には「遍路転がし」という難所もありますから楽しいハイキングとはちょっと違うのですね。

 上の「同行二人」とはお遍路はお大師さんと一緒という意味です。困難なことも多いお遍路の旅を励ましてくれる言葉でしょうね。お大師さんがいつも一緒にいてくれる。大変な時には助けて下さるというのが同行二人です。もう20年近くも前のこと、私もお遍路でこの同行二人、お大師さんに助けられた思い出があります。それをお話しましょう。

 歩きだして3日目くらいだったと思います。お昼近く道端の木陰で一休みして気がつくと日記帳がありません。道々思ったことなどを記した大事な手帳です。大慌てで回ってきた札所や駐在所に電話しました。すると直前にお詣りした札所に置き忘れていたことが分かりました。でも、その札所はそれを送ったりは出来ませんと言うのです。

 手帳を取りに戻る余裕がない私が困り果てていると、何と事情を知った駐在所の方が私の宿まで届けて下さるというのです。駐在所の奥さんの実家がたまたま私の宿の近くで何とその翌日そこにお出での用事があるというのです。ウソのようにラッキーな話に私はこれこそお大師さんのお蔭と思わざるを得ませんでした。


 私はお大師さんの不思議な力をいまなお忘れることができません。と同時にその不思議な力を頂けたのは私がお遍路に必死だったからだと思います。人間必死になった時は必ず誰かがその必死を助けてくれます。必ず誰かが応援してくれます。どうぞ皆さんも何かをする時には必死にして下さい。必ず誰かが助けてくれますから。
 



 どのような道を どのように 歩くとも
いのちいっぱいに 生きればいいぞ
          
           ~相田みつを~
 

 

人生は“庭掃き”だ! №533

人生は“庭掃き”だ!
平成31年4月17日

 私たちの毎日は掃除洗濯ゴミ出し庭掃きですね。掃除機で部屋をきれいにする。汚れているところがあれば雑巾で拭く。庭を掃いてきれいにする。ゴミは燃えるもの、プラスチック類、ビン缶等に分別して収集日に出します。それをしなければ家の中はたちまちゴミだらけ。あっという間にゴミ屋敷になってしまうに違いありません。

 寺も同じです。部屋掃除、庭掃き、ゴミ出しの毎日。庭掃きと言えば春のこの時期は新旧の葉が変わる時期とあって二本のクスノキが毎日大量の葉を落としています。掃いてる側から、掃いても掃いても、という言葉通りに葉を落としています。余談ながらクスノキは一年中と言ってよいほど次々に落とし物をしてくれますね。

 でも、掃いても掃いても落ちるクスノキの葉を掃いていて気づくことがありました。それは掃くという行為が無心をもたらすということです。ただ掃くという行為になり切った時は無心になっているということです。それはまさに三昧の境地です。王三昧と言われる坐禅より手っ取り早く三昧を味わえるような気がしてなりません。

 で、思いました。時々お話している「七仏通戒偈」のうち、諸悪莫作(悪いことはしない)、衆善奉行(よいことをする)は常識的な判断でもほぼ通用すると思いますが、自浄其意(自ら心を清くする)はどうしたらよいかとお思いになる方もお出ででしょうね。実は心を清らかにする手っ取り早い方法が上に述べたゴミ出し庭掃きなのです。

 ゴミ出し庭掃きに共通するのは「清らかにする」ということです。部屋や庭をきれいにするという行為がそのまま自分の心を清らかにしてくれるのです。ゴミ出し庭掃きイコール心の掃除なのです。お釈迦さまから箒一本を与えられた周利槃特(チューダパンタカ)が悟りを得られたのも庭掃きで心を清らかに出来たからに違いありません。

 修行中永平寺では毎朝法堂(はっとう)から山門までの雑巾がけがありました。また毎日午前午後草取りや庭掃きがありました。当時はそれら作務の意味が分かっていませんでしたが今にして思えばその作務は心の雑草心のゴミを取り除くためであったのです。そうです。私も皆さんもゴミ出し庭掃きに努めましょうね。
 
 
  人生はこんなものかとゴミを出す
          NHKボヤキ川柳

 
 
 
 

花の教え №532

花の教え
平成31年4月8日

 花祭りのご案内はがきに「春うらら うららの春に 咲く桜 我も生きなむ 花の教えに」という拙詠を披露させて頂きましたね。あの歌の「花の教え」とは花祭りの教え、お釈迦さまの教えというつもりですが、もう一つ文字通りの花、桜の花の教えという意味も込めました。桜の花も私たちに大切なことを教えてくれているのです。

 桜は秋に落葉して休眠に入りますが翌年春に花を咲かせるためにはその休眠を止めなければなりません。その休眠打破に必要なのが冬の寒さだというのです。この冬はさほど寒くなかったためか鹿児島だかに花咲かずに葉っぱが出た桜があったそうですね。花が咲くためには寒さが必要って修行のように思われませんか。

    水在水中互切磋    水人すべて

    人在人中相琢磨    相見互いに

    水人万物共精進    心を磨く

    花咲辛抱苦労果    花は苦労の風に咲け

 水は様々な状態様々な場所をめぐります。水はある時は雲になりある時は雨になりある時は雪になります。ある時は清流になりある時は濁流になります。私たち人間もある時は笑いある時は泣きある時は怒り嘆きます。一生の間喜び悲しみを繰り返します。水も人もそして存在する万物はすべてそれぞれがそれぞれの修行をしているのではないでしょうか。

 思うのです。人間が自ら望んで生まれてきたとするなら私たちは人間に生まれてきたことに意味と価値があるに違いないと。桜が落葉と開花を繰り返すように、そして水が雲になり雨になり雪になり時には清流時には濁流となるように、私たち人間も時に笑い時に泣きながら生きるということが修行ではないかと。

 生きることには老いと病と死がつきものです。生きることには喜怒哀楽がつきものです。この老病死と喜怒哀楽に悩み苦しみ喜び悲しみ笑ったり泣いたりして過ごす一生。私はそれこそが人間の修行ではないかと思うのです。老病死に悩み苦しみ喜怒哀楽に素直に生きる。それこそが人間の修行だと思うのです。


  人身得ること難し

 仏法()うこと()れなり
         
         ~修証義~

まんぷく藤棚 №531

まんぷく藤棚
平成31年4月1日

 NHKの朝ドラ「まんぷく」が好評のうちに終わりましたね。カップヌードルを創案した日清食品の安藤百福さんの奥様仁子(まさこ)さんをめぐる話でしたが、実は当観音寺には安藤百福さんが寄贈して下さったものがあります。それが表題の「藤棚」です。寄贈記念碑に「平成十年11月」とありますから21年前のことになります。

 藤棚は柱も梁も御影石です。柱15本、梁22本が使われていますが、ご存知の通り当院は車が直接入れる寺ではありませんから一本が何百キロもありそうな石材を運び込むだけでも大変だったろうと思います。その藤棚の下にはこれも御影石の机が二基つくられています。今更ながらその大変さを思うと有難く感謝せざるを得ません。

 でも、それでは何故安藤百福さんがこの観音寺に藤棚を寄贈して下さったのか。皆さん当然そうお思いですよね。それは安藤百福さんご夫妻が敬虔なる観音様信仰をお持ちだったからです。日清食品の工場にはすべて観音様が祭られているそうですが、それほどに安藤百福さんご夫妻は観音様のお力を信じておいでだったと言います。

 藤棚の南正面に日清食品下関工場が見えます。この下関工場にも観音様が祭られており、5年毎の周年祭には当観音寺がその祭事をさせて頂いておりますが、企業が神仏に対する祈りの気持ちを持つというのは良い製品をつくる第一歩ではないでしょうか。昨今の企業ぐるみの不正工事等を聴く度そのことを思わざるを得ません。

 先日、小月商工会の皆さんが藤棚見学にお出で下さいました。むろん中には安藤百福さん由来の藤棚があることを初めて知ったという方もお出でで大変興味深くご覧頂けたのは嬉しいことでした。これが地域の活性化につながればと願って止みません。今月中ごろには花が咲くと思います。またその頃皆さんお花見にお出で下さればと存じます。

 まんぷくに因んで安藤百福さんの「食足世平(食足りて世平らか)」という言葉を紹介させて頂きましょう。この言葉は以前このたよりで申し上げたことがあります。食が足りて初めて世の中が平和になるというのが安藤百福さんの思いだったのです。これは真実だと思います。そう思うと日本はいま本当に平和でしょうか。




食品は平和産業です

        安藤百福