平成24年4月8日
ただ独り歩め
苦楽相生之娑婆 苦楽半ばの娑婆世界
人生人間是什麼 人間とは、と問はれたら
笑而答唯我独存 唯我独り、と答えませう
孤生独逝生命河 一人生まれて一人逝く
花祭りの頃になるといつも思い出します。誕生されたばかりのお釈迦さまが七歩歩いて右手を上げ「天上天下唯我独尊」と言われたということを。勿論お釈迦さまが自分だけが尊いと言われるはずはなく、いやそれより生まれて直ぐに七歩歩いて言葉を言うなんてあり得ず、これは後の付会伝説とは思いますが、それにしてもと気になるのです。
そして思いついたのが上の法語。唯我独尊を唯我独存ともじってみたのです。しかし、思って下さい。 私たちは一人では暮らせません。世話になったり世話したり迷惑かけたりかけられたり。みんな誰か何かのお蔭で生きています。「誰の世話にもなりたかねぇ」と粋がってみても食う寝る生きるどれ一つお蔭に寄らないものはないのです。
若い頃、旅をしていてつくづく思ったことがありました。旅というのは帰るところがあるから旅なのです。帰るところがありそこには家族や友人がいるから旅なのです。帰るところのない旅は旅ではありません。それは悲しい流浪、孤独の放浪です。日常という旅でもそれは変わりありません。私たちはお蔭を受け絆によって支えられているから生きていられるのです。
しかし、お釈迦様は「独り歩め」とおっしゃいました。「世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニパータ)と言われるのです。生まれること死ぬことがそうであるように人間には他の人が代われないもの、その人がするしかないものがあります。どのように生きるか、がまさにそれではないでしょうか。お釈迦様はそれを言われたのでしょう。
六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり 独り生まれて独り死す ~一遍上人
随所作主 №135
平成24年4月1日
随所作主
つい先達て、朝のお勤めが終わって外が明るくなった頃、突然S君が本堂に現われました。こんなに早く、と思ったら、お別れに来たというのです。S君は出向で防府の車工場に勤めていたのですが、またもとの佐渡の工場に帰ることになったと言います。S君にとって山口での生活は充実した楽しい毎日であったということですから佐渡に帰るのは望みではありません。 ずっと山口にいたいというのが本音なのです。心残りの別れでした。
これより十日ほど前、所要で神奈川に帰宅した折、以前同僚だった女性のA先生から驚くほど素晴らしい話を伺いました。A先生は定年まで三年残して今春の退職を決意されたのですが、何とそれを待ってくれていたかのように箱根にある「星の王子様ミュージアム」の館長という願ってもない仕事を任せられることになったというのです。
三月は卒業と別れの時、四月は出発と出会いの時と言いますが、私は上のS君、A先生に共に「随所作主」(随所に主と作(な)る)という言葉を紹介しました。この言葉は臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉ですが、この語句には「立処皆眞」(立処皆な眞なり)という言葉が続いています。「随所に主となれば立処みな眞なり」とは、あなたがおもむくところあなたが主人公になればそこに真実が現れるということです。
主となる、の主とは真実の自己、無位の眞人を言いますが、私は与えられたところで全力を尽くすと解します。全力を尽くすことが真実の自己を現わすことにつながると思うのです。分かりやすく言えば一生懸命努めることだと思います。人が一生懸命、必死になった時不思議な力、天の助けがあることを私は信じてやみません。
S君にとって佐渡での生活は今までのように楽しいものではないかも知れません。しばらくはきっとそうでしょう。また、Aさんはこれから未経験の仕事に取り組む訳ですからその苦労と不安は並みではないはずです。だからこそ私はお二人に、いやこれから新しい出発をされる全ての皆さんに与えられたところで全力を尽くすことをお願いしてやみません。
Heaven helps those who help themselves.
天はみずから助くる者を助く
随所作主
つい先達て、朝のお勤めが終わって外が明るくなった頃、突然S君が本堂に現われました。こんなに早く、と思ったら、お別れに来たというのです。S君は出向で防府の車工場に勤めていたのですが、またもとの佐渡の工場に帰ることになったと言います。S君にとって山口での生活は充実した楽しい毎日であったということですから佐渡に帰るのは望みではありません。 ずっと山口にいたいというのが本音なのです。心残りの別れでした。
これより十日ほど前、所要で神奈川に帰宅した折、以前同僚だった女性のA先生から驚くほど素晴らしい話を伺いました。A先生は定年まで三年残して今春の退職を決意されたのですが、何とそれを待ってくれていたかのように箱根にある「星の王子様ミュージアム」の館長という願ってもない仕事を任せられることになったというのです。
三月は卒業と別れの時、四月は出発と出会いの時と言いますが、私は上のS君、A先生に共に「随所作主」(随所に主と作(な)る)という言葉を紹介しました。この言葉は臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉ですが、この語句には「立処皆眞」(立処皆な眞なり)という言葉が続いています。「随所に主となれば立処みな眞なり」とは、あなたがおもむくところあなたが主人公になればそこに真実が現れるということです。
主となる、の主とは真実の自己、無位の眞人を言いますが、私は与えられたところで全力を尽くすと解します。全力を尽くすことが真実の自己を現わすことにつながると思うのです。分かりやすく言えば一生懸命努めることだと思います。人が一生懸命、必死になった時不思議な力、天の助けがあることを私は信じてやみません。
S君にとって佐渡での生活は今までのように楽しいものではないかも知れません。しばらくはきっとそうでしょう。また、Aさんはこれから未経験の仕事に取り組む訳ですからその苦労と不安は並みではないはずです。だからこそ私はお二人に、いやこれから新しい出発をされる全ての皆さんに与えられたところで全力を尽くすことをお願いしてやみません。
Heaven helps those who help themselves.
天はみずから助くる者を助く
続・メビウスの帯 №134
平成24年3月31日
続・メビウスの帯
たより№132でご紹介した「メビウスの帯」を先日の観音様の会と彼岸会の時に実演して皆さまのご関心を頂きましたが、その後、生と死についての自分の考えは違うのではないかという思いが生じました。観音様の会の時は生と死がそれぞれの延長上にあって、その生と死を私たちは無限に繰り返しているのではないかと申し上げましたね。
また、彼岸会の時は、彼岸と此岸は実はこのメビウスの帯のように同一線上に同時にあるのではないか、と申し上げました。仏教の教えでは彼岸、即ち西方浄土は西十万億土の彼方ということになっていますが、彼岸はそんな想像もできないような遠いところにあるのではなく、この世この世界、私たちが暮らしている日常の中にあるのでは、という思いからでした。
そう考えた時、生と死も互いの延長上にあるのではなく彼岸此岸と同じように同時に存在していると考えた方が正しいのではないかと思えたのです。普通に考えれば生と死は歴然としています。生と死は別次元と解する方が一般的ではないでしょうか。しかし、生と死は生と死ではなく生死(しょうじ)、生死一如と考える方が正しいと思われて来たのです。
一つ例があります。私たち人間の体は60兆の細胞で成り立っていると言われますが、何と毎日、このうち200分の1の細胞が死に、それに相当する新しい細胞が生まれているのだそうです。人間の体が細胞の生と死という「動的平衡」によって支えられているということは、私たちが生と死を同時に合わせ持った存在ということになるのです。
考えれば一つの事象の中に相反する事象を内在させることは自然のなかにもあります。二十四節季にある立春は春の初めと言われますが二月四日はまだ冬さなかです。寒中と変わらぬ寒さの時です。しかし、その時既にそこに春が存在しているのですね。相反する冬と春が同時に存在しているのが立春と言えます。立夏も立秋も立冬も同じことでしょう。
メビウスの帯に戻れば、私たち人間は生死を同時に合わせ持った存在として無限の旅をするのでしょう。生の中に死があり死の中に生があるのです。
花咲きて 花散りてゆく 些かの 迷ひもなくて 時のまにまに
生より死にうつると こころうるは、これあやまりなり。~「正法眼蔵・生死」
続・メビウスの帯
たより№132でご紹介した「メビウスの帯」を先日の観音様の会と彼岸会の時に実演して皆さまのご関心を頂きましたが、その後、生と死についての自分の考えは違うのではないかという思いが生じました。観音様の会の時は生と死がそれぞれの延長上にあって、その生と死を私たちは無限に繰り返しているのではないかと申し上げましたね。
また、彼岸会の時は、彼岸と此岸は実はこのメビウスの帯のように同一線上に同時にあるのではないか、と申し上げました。仏教の教えでは彼岸、即ち西方浄土は西十万億土の彼方ということになっていますが、彼岸はそんな想像もできないような遠いところにあるのではなく、この世この世界、私たちが暮らしている日常の中にあるのでは、という思いからでした。
そう考えた時、生と死も互いの延長上にあるのではなく彼岸此岸と同じように同時に存在していると考えた方が正しいのではないかと思えたのです。普通に考えれば生と死は歴然としています。生と死は別次元と解する方が一般的ではないでしょうか。しかし、生と死は生と死ではなく生死(しょうじ)、生死一如と考える方が正しいと思われて来たのです。
一つ例があります。私たち人間の体は60兆の細胞で成り立っていると言われますが、何と毎日、このうち200分の1の細胞が死に、それに相当する新しい細胞が生まれているのだそうです。人間の体が細胞の生と死という「動的平衡」によって支えられているということは、私たちが生と死を同時に合わせ持った存在ということになるのです。
考えれば一つの事象の中に相反する事象を内在させることは自然のなかにもあります。二十四節季にある立春は春の初めと言われますが二月四日はまだ冬さなかです。寒中と変わらぬ寒さの時です。しかし、その時既にそこに春が存在しているのですね。相反する冬と春が同時に存在しているのが立春と言えます。立夏も立秋も立冬も同じことでしょう。
メビウスの帯に戻れば、私たち人間は生死を同時に合わせ持った存在として無限の旅をするのでしょう。生の中に死があり死の中に生があるのです。
花咲きて 花散りてゆく 些かの 迷ひもなくて 時のまにまに
生より死にうつると こころうるは、これあやまりなり。~「正法眼蔵・生死」
寂しい時には №133
平成24年3月18日
ありありと 春愁の眉 阿修羅像 倉橋羊村
先達てのたより(睡る蛇・№129)で寂しさのことを書きましたら、思い当たる節があったのかさるお方に「あれはさみしかったですね」と言われました。ま、私とていつも寂しさに襲われている訳ではありませんし、日常はむしろ能天気と言ってよいのですが、考えれば人は誰しも寂しさを思わないことはなく、人生そのものが寂しさと道連れだろうと思うのです。
和歌の時代には「三夕の歌」に代表されるように、寂しさと言えば「秋の夕暮れ」でしたが、近代はむしろ冒頭の句のように春の愁い、春愁が言われるようになりました。阿修羅の眉に春の愁いを見たのは現代詩人の感性だと思います。そんなことを思っていたらネットで「理由なくさみしいときの対応法」というのを見つけましたのでご紹介いたしませう。
対応その①は「30秒ほど上を向く」です。落ち込むとうつむきがちになりますね。「上を向いて歩こう」です。②は「光を浴びる」です。これは鬱の治療として言われていますね。光がエネルギーであることは間違いありません。③は「意味なく笑う」です。いまラフターヨガが注目されていますが、笑いにがんを治す効果があることは医学的に確かめられていますね。
④は「ポジティブな言葉を独りごとで言い続ける」です。明るく力強い言葉を繰り返すことで言葉の力を成就させるのです。⑤、⑥は「楽しかったころの音楽を聴く・匂いを嗅ぐ」です。これは認知症の人の改善にも有効ですね。楽しかった時の元気を呼び戻すのが歌や匂いなのです。そして最後⑦は「寝る」です。そう、寝られれば寝るのが一番かも知れません。
どうですか、みなさん。ここに紹介したこの七つの方法はどれもその効果が確かめられているものです。多分皆さまも気持ちが沈んだ時、このうちのどれかをなさっているのではないでしょうか。③の意識的に笑うことはなじみが薄いかも知れませんが、これはお詣りの方にラフターヨガの先生がおいでですので、いずれ体験をお願いしたいと思っています。「ワッハッハ、ワッハッハ、ワッハッハのハノハノハ…」ってね。
日をまともに見ているだけで
うれしいと思っているときがある ~「太陽」・八木重吉
寂しい時には
ありありと 春愁の眉 阿修羅像 倉橋羊村
先達てのたより(睡る蛇・№129)で寂しさのことを書きましたら、思い当たる節があったのかさるお方に「あれはさみしかったですね」と言われました。ま、私とていつも寂しさに襲われている訳ではありませんし、日常はむしろ能天気と言ってよいのですが、考えれば人は誰しも寂しさを思わないことはなく、人生そのものが寂しさと道連れだろうと思うのです。
和歌の時代には「三夕の歌」に代表されるように、寂しさと言えば「秋の夕暮れ」でしたが、近代はむしろ冒頭の句のように春の愁い、春愁が言われるようになりました。阿修羅の眉に春の愁いを見たのは現代詩人の感性だと思います。そんなことを思っていたらネットで「理由なくさみしいときの対応法」というのを見つけましたのでご紹介いたしませう。
対応その①は「30秒ほど上を向く」です。落ち込むとうつむきがちになりますね。「上を向いて歩こう」です。②は「光を浴びる」です。これは鬱の治療として言われていますね。光がエネルギーであることは間違いありません。③は「意味なく笑う」です。いまラフターヨガが注目されていますが、笑いにがんを治す効果があることは医学的に確かめられていますね。
④は「ポジティブな言葉を独りごとで言い続ける」です。明るく力強い言葉を繰り返すことで言葉の力を成就させるのです。⑤、⑥は「楽しかったころの音楽を聴く・匂いを嗅ぐ」です。これは認知症の人の改善にも有効ですね。楽しかった時の元気を呼び戻すのが歌や匂いなのです。そして最後⑦は「寝る」です。そう、寝られれば寝るのが一番かも知れません。
どうですか、みなさん。ここに紹介したこの七つの方法はどれもその効果が確かめられているものです。多分皆さまも気持ちが沈んだ時、このうちのどれかをなさっているのではないでしょうか。③の意識的に笑うことはなじみが薄いかも知れませんが、これはお詣りの方にラフターヨガの先生がおいでですので、いずれ体験をお願いしたいと思っています。「ワッハッハ、ワッハッハ、ワッハッハのハノハノハ…」ってね。
日をまともに見ているだけで
うれしいと思っているときがある ~「太陽」・八木重吉
メビウスの帯 №132
平成24年3月17日
メビウスの帯
生と死は メビウスの帯 きっとそう 表裏一体 無限に続く
今日は彼岸の入り。何時だったかも申し上げましたが、一体彼岸とは何処でしょう。阿弥陀様の浄土は西方十万億土と言われますが、十万億土の彼方なんて想像もつきませんね。ただ、彼岸を悟りの境界と理解するならば、それは距離の問題ではなくなります。一人ひとりの心の問題になりますね。此岸と彼岸は一体のものになります。
メビウスの帯ってご存知でしょうか。細長い紙の帯(テープ)を一度ねじって両端を糊づけしたものです。ところが、ただそれだけのことで表裏の区別がなくなる不思議な曲面(輪)になるのです。試しにその面の一点からずっと辿って行くと最初の点に戻ります。また、そのテープ幅の中央を切っていくと二つの輪にはならず、一つの大きな輪になるのです。
このメビウスの帯のことを考えていて気がつきました。生死、つまり生きることと死ぬことはメビウスの帯ではないかと。 生きることの延長上に死があり、死の延長上に生があるに違いありません。葬儀の時の回向の一つに「切に以(おもんみ)れば、生死(しょうじ)交謝(きょうじゃ)し寒暑互いに遷(うつ)る」という言葉がありますが、「生死交謝」とはまさにこのことではないでしょうか。
朝が来て夜になり季節の移ろいで寒暑が替わるように、私たち人間もメビウスの帯の上で、生まれて生きて死んで生まれることを繰り返しているのでしょう。先ほど申し上げたように、メビウスの帯は帯の中央を切っていくとねじれたままの大きな輪になりますが、それは何と数学で使う無限大記号(∞)なのです。
初観音の時のたより「年々歳々」(№126)でも申し上げましたが、無常の存在であり無常を生きている私たち人間は、無常であるがゆえに永遠であると思います。そこでは生が此岸でもなく死が彼岸でもないでありましょう。あざなえる縄の如く時に彼岸、また時には此岸。私も苦と楽と悲しみと喜びに七転八倒し続けていくに違いありません。
一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すものは、その福初めて久し。「菜根譚」
メビウスの帯
生と死は メビウスの帯 きっとそう 表裏一体 無限に続く
今日は彼岸の入り。何時だったかも申し上げましたが、一体彼岸とは何処でしょう。阿弥陀様の浄土は西方十万億土と言われますが、十万億土の彼方なんて想像もつきませんね。ただ、彼岸を悟りの境界と理解するならば、それは距離の問題ではなくなります。一人ひとりの心の問題になりますね。此岸と彼岸は一体のものになります。
メビウスの帯ってご存知でしょうか。細長い紙の帯(テープ)を一度ねじって両端を糊づけしたものです。ところが、ただそれだけのことで表裏の区別がなくなる不思議な曲面(輪)になるのです。試しにその面の一点からずっと辿って行くと最初の点に戻ります。また、そのテープ幅の中央を切っていくと二つの輪にはならず、一つの大きな輪になるのです。
このメビウスの帯のことを考えていて気がつきました。生死、つまり生きることと死ぬことはメビウスの帯ではないかと。 生きることの延長上に死があり、死の延長上に生があるに違いありません。葬儀の時の回向の一つに「切に以(おもんみ)れば、生死(しょうじ)交謝(きょうじゃ)し寒暑互いに遷(うつ)る」という言葉がありますが、「生死交謝」とはまさにこのことではないでしょうか。
朝が来て夜になり季節の移ろいで寒暑が替わるように、私たち人間もメビウスの帯の上で、生まれて生きて死んで生まれることを繰り返しているのでしょう。先ほど申し上げたように、メビウスの帯は帯の中央を切っていくとねじれたままの大きな輪になりますが、それは何と数学で使う無限大記号(∞)なのです。
初観音の時のたより「年々歳々」(№126)でも申し上げましたが、無常の存在であり無常を生きている私たち人間は、無常であるがゆえに永遠であると思います。そこでは生が此岸でもなく死が彼岸でもないでありましょう。あざなえる縄の如く時に彼岸、また時には此岸。私も苦と楽と悲しみと喜びに七転八倒し続けていくに違いありません。
一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すものは、その福初めて久し。「菜根譚」
続・さくら証書 No.131
平成24年3月6日
続・さくら証書
前号、「さくら証書」(№130)で子供は親を選んで生まれてくるという話をしましたが、お読み下さった方には疑問を持たれた方もおいでだろうと思います。 それでは親から虐待されている子供もその親を選んできたのかという疑問です。 親から虐待を受けている子供は虐待されることを望んで生まれて来たのか、ということになりますよね。
近年、我が国では親による子供の虐待事件が後を絶ちません。暴力を受けたり食べ物を与えられなかったりして幼い命が失われるニュースを聴くたび、その痛ましさに悲しみを覚えてなりませんが、実はつい最近、以前同僚だった先生からこれに類する話を聞きました。親から冷たい仕打ちを受けて心の安定を保てない子供の話です。
切ないのはその子が母親から「死ね」と言われたことがあるということでした。その子はそのことを半ベソで話したと言いますが、母親の言葉がどんな大きな心の傷になったかは思ってなお余りあります。授業や集団の中でとかくトラブルを起こしがちということも、その遠因は幼児期に母親とのしっかりした愛着関係が出来なかったことにあるのでしょう。
しかし、このような例でもその子はその親を選んで生まれたと言えるのでしょうか。酷なようですが、結論から申し上げれば「その通りです」ということになります。親を選ぶということは自分にとってつらく苦しいことも予定のうちです。その困難や苦しみを克服することを新しい地上生活の課題とするからです。その子は「霊的原像」をそのように作ったのです。
その子がいま熱中しているのは段ボールの家づくりだそうです。その家にはポストまでついているのだそうです。話してくれた先生が言う通り、家は居場所を、ポストは親しい人とのつながりを求める心の表われでしょう。私はそこにその子が意図した地上生活の課題を克服しようとする努力を覚えざるを得ません。その子に「ガンバレー、ガンバレー」と声援を送りたい気持ちで一杯になります。私たちにとってつらく困難な問題こそ自分が克服すべき課題として意図してきたものと言えるでありましょう。
続・さくら証書
前号、「さくら証書」(№130)で子供は親を選んで生まれてくるという話をしましたが、お読み下さった方には疑問を持たれた方もおいでだろうと思います。 それでは親から虐待されている子供もその親を選んできたのかという疑問です。 親から虐待を受けている子供は虐待されることを望んで生まれて来たのか、ということになりますよね。
近年、我が国では親による子供の虐待事件が後を絶ちません。暴力を受けたり食べ物を与えられなかったりして幼い命が失われるニュースを聴くたび、その痛ましさに悲しみを覚えてなりませんが、実はつい最近、以前同僚だった先生からこれに類する話を聞きました。親から冷たい仕打ちを受けて心の安定を保てない子供の話です。
切ないのはその子が母親から「死ね」と言われたことがあるということでした。その子はそのことを半ベソで話したと言いますが、母親の言葉がどんな大きな心の傷になったかは思ってなお余りあります。授業や集団の中でとかくトラブルを起こしがちということも、その遠因は幼児期に母親とのしっかりした愛着関係が出来なかったことにあるのでしょう。
しかし、このような例でもその子はその親を選んで生まれたと言えるのでしょうか。酷なようですが、結論から申し上げれば「その通りです」ということになります。親を選ぶということは自分にとってつらく苦しいことも予定のうちです。その困難や苦しみを克服することを新しい地上生活の課題とするからです。その子は「霊的原像」をそのように作ったのです。
その子がいま熱中しているのは段ボールの家づくりだそうです。その家にはポストまでついているのだそうです。話してくれた先生が言う通り、家は居場所を、ポストは親しい人とのつながりを求める心の表われでしょう。私はそこにその子が意図した地上生活の課題を克服しようとする努力を覚えざるを得ません。その子に「ガンバレー、ガンバレー」と声援を送りたい気持ちで一杯になります。私たちにとってつらく困難な問題こそ自分が克服すべき課題として意図してきたものと言えるでありましょう。
さくら証書 No.130
平成24年3月4日
さくら証書
NHKラジオ深夜便をお聴きの方はご存知と思いますが、先日久しぶりにラジオをつけましたら「深夜便の歌」で大江千里・八神純子さん作詞・作曲、八神純子さん唄の「さくら証書」が流れていました。桜の花びらが舞う我が子の卒業式の日、過ごした日々を懐かしく思い出しながら、子の行く先を思う母の心情をしみじみと綴った歌です。
私がこの歌に関心を持ったのはその歌詞でした。歌い出しが「生まれてくる時/子供たちは皆 父と母を選ぶのだと/いつか教えられた/それが本当なら/わたしたちのこと/選んで生まれてきてくれた事に“ありがとう”」となっているのです。皆さんは生まれてくる子が親を選ぶってお聴きになったことがあるでしょうか。
実はこれはドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)が言っていることなのです。そう、シュタイナー学校の基を作った思想家です。その独自の哲学はいまも教育を初め医学、建築、農業等多様な場で実践されていますが、その根本にあるのが霊的人間観と言えましょう。人間は生死を繰り返すという輪廻転生を思想の根本としているのです。
シュタイナーは言います。「私たちには、自分が負担をかけた人たち、自分に負担をかけた人たちがいますが、(死後)この人たちとの関係も魂の前に償いを求めて現れ、次の地上生活において再びその人たちと一緒に生きようと(中略)新しい地上生活の霊的原像を作り」、その「新しい地上生活入るために父親と母親から受ける物質成分に自分を結びつけます」と。
つまり、私たちは自分の新しい地上生活の霊的原像を生きるため、「遺伝的な特徴とこの原像との間に親和力が見出せるような両親に惹(ひ)きつけられる」というのです。それが親を選ぶということなのです。この「さくら証書」の歌のように、我が子が自分達を親に選んで生まれて来たことに喜びを覚え、同時に子供が父母を慕って成長していくならば、その子供はまさにシュタイナーのいう「霊的原像」を実現させる人生を歩み始めたと言えるでありましょう。私たちは誰一人無目的に生まれてくることはないのです。
さくら証書
NHKラジオ深夜便をお聴きの方はご存知と思いますが、先日久しぶりにラジオをつけましたら「深夜便の歌」で大江千里・八神純子さん作詞・作曲、八神純子さん唄の「さくら証書」が流れていました。桜の花びらが舞う我が子の卒業式の日、過ごした日々を懐かしく思い出しながら、子の行く先を思う母の心情をしみじみと綴った歌です。
私がこの歌に関心を持ったのはその歌詞でした。歌い出しが「生まれてくる時/子供たちは皆 父と母を選ぶのだと/いつか教えられた/それが本当なら/わたしたちのこと/選んで生まれてきてくれた事に“ありがとう”」となっているのです。皆さんは生まれてくる子が親を選ぶってお聴きになったことがあるでしょうか。
実はこれはドイツの神秘学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)が言っていることなのです。そう、シュタイナー学校の基を作った思想家です。その独自の哲学はいまも教育を初め医学、建築、農業等多様な場で実践されていますが、その根本にあるのが霊的人間観と言えましょう。人間は生死を繰り返すという輪廻転生を思想の根本としているのです。
シュタイナーは言います。「私たちには、自分が負担をかけた人たち、自分に負担をかけた人たちがいますが、(死後)この人たちとの関係も魂の前に償いを求めて現れ、次の地上生活において再びその人たちと一緒に生きようと(中略)新しい地上生活の霊的原像を作り」、その「新しい地上生活入るために父親と母親から受ける物質成分に自分を結びつけます」と。
つまり、私たちは自分の新しい地上生活の霊的原像を生きるため、「遺伝的な特徴とこの原像との間に親和力が見出せるような両親に惹(ひ)きつけられる」というのです。それが親を選ぶということなのです。この「さくら証書」の歌のように、我が子が自分達を親に選んで生まれて来たことに喜びを覚え、同時に子供が父母を慕って成長していくならば、その子供はまさにシュタイナーのいう「霊的原像」を実現させる人生を歩み始めたと言えるでありましょう。私たちは誰一人無目的に生まれてくることはないのです。
睡(ねむ)る蛇 №129
平成24年2月17日
睡(ねむ)る蛇
来し方の あまたのことの 思ひ出づ 懐かしさより 悲しさが先
独り居の 僧院に雪 降りしきり ものし思へば 死も近きなり
夜中にふと目が覚めた時、言いようのない寂しさを感じることはありませんか。上の二首は最近の拙詠ですが、私も長いこと生きて来たという思いと共に思い出される様々のことに懐かしさより悲しさを覚えることが多くなりました。 年ごとに懐かしさは悲しさに重なってくるように思います。それだけ死が近くなったということなのでしょうか。
恐らくその悲しさはこれまで自分が無自覚に多くの人を傷つけ、また悲しませたことに由来しているのでしょう。父や母に妻に娘にそして多くの友人に迷惑や心配をかけながら生きて来たという悔恨を思うことが多くなりました。迷惑や悲しみを与えたのはひとえに煩悩に寄っています。自分自身の煩悩の結果です。
お釈迦様はその最後の説法でもこの煩悩について話されました。その遺教の一節に「煩悩の毒蛇睡(ねむ)って汝が心(むね)に在り、譬えば黒蚖(こくがん)の汝が室に在って睡(ねむ)るが如し」とあります。黒蚖とはマムシ、毒蛇のことです。私たちの心には毒蛇の如き煩悩が眠っていると言われるのです。私たちは普段そのことを全く意識していませんが、煩悩は眠る毒蛇だと言われるのです。
お釈迦様は続けて言われます。「当(まさ)に持戒の鉤(かぎ)を以て早くこれを屛除(びょうじょ)すべし、睡(すい)蛇(じゃ)既に出でなば乃(すなわ)ち安眠(あんめん)すべし」と。私たちの心に眠っている煩悩の毒蛇を戒の力で退散させなさい。そうして初めて安眠しなさい、と言われるのです。安眠とは穏やかなる日常でしょう。四弘誓願文に言う通り煩悩は無尽です。祈り祈り祈ってなお尽きることのないのが煩悩です。しかし、挫けず祈りを続けて安らかな思いを頂きましょう。
朝日浴び 朱(あけ)に染まりし 笠山の 姿うるはし 春近づきぬ
睡(ねむ)る蛇
来し方の あまたのことの 思ひ出づ 懐かしさより 悲しさが先
独り居の 僧院に雪 降りしきり ものし思へば 死も近きなり
夜中にふと目が覚めた時、言いようのない寂しさを感じることはありませんか。上の二首は最近の拙詠ですが、私も長いこと生きて来たという思いと共に思い出される様々のことに懐かしさより悲しさを覚えることが多くなりました。 年ごとに懐かしさは悲しさに重なってくるように思います。それだけ死が近くなったということなのでしょうか。
恐らくその悲しさはこれまで自分が無自覚に多くの人を傷つけ、また悲しませたことに由来しているのでしょう。父や母に妻に娘にそして多くの友人に迷惑や心配をかけながら生きて来たという悔恨を思うことが多くなりました。迷惑や悲しみを与えたのはひとえに煩悩に寄っています。自分自身の煩悩の結果です。
お釈迦様はその最後の説法でもこの煩悩について話されました。その遺教の一節に「煩悩の毒蛇睡(ねむ)って汝が心(むね)に在り、譬えば黒蚖(こくがん)の汝が室に在って睡(ねむ)るが如し」とあります。黒蚖とはマムシ、毒蛇のことです。私たちの心には毒蛇の如き煩悩が眠っていると言われるのです。私たちは普段そのことを全く意識していませんが、煩悩は眠る毒蛇だと言われるのです。
お釈迦様は続けて言われます。「当(まさ)に持戒の鉤(かぎ)を以て早くこれを屛除(びょうじょ)すべし、睡(すい)蛇(じゃ)既に出でなば乃(すなわ)ち安眠(あんめん)すべし」と。私たちの心に眠っている煩悩の毒蛇を戒の力で退散させなさい。そうして初めて安眠しなさい、と言われるのです。安眠とは穏やかなる日常でしょう。四弘誓願文に言う通り煩悩は無尽です。祈り祈り祈ってなお尽きることのないのが煩悩です。しかし、挫けず祈りを続けて安らかな思いを頂きましょう。
朝日浴び 朱(あけ)に染まりし 笠山の 姿うるはし 春近づきぬ
膨張と収縮 №128
平成24年2月3日
膨張と収縮
天行久遠而無窮 天の動きに窮みなく
無常永遠而無終 時の流れも終りなし
時膨張亦時収縮 時に膨らみ時に縮むは
人間地球在其中 我らと地球の定めなり
何十年も前のことになりますが、私はその頃住んでいた家のトイレの壁紙の模様を今も覚えています。小さな二つの図案でした。一つは点を中心に紡錘形を十字に配したもの、もう一つはその十字の紡錘形が四方に飛んで花のようになったものでした。何故そんなことを覚えているかと言えば、私がその図案に一つの意味を見出したからでした。
というのは、作者の意図は知らず、私にはその図案が収縮と膨張という自然の法則を意味していると思えたのです。ビッグバンで始まった宇宙は今なお膨張し続けていると言います。宇宙の誕生で生まれた恒星は進化の果てには中心核だけの矮(わい)星(せい)になるものもあります。宇宙に限らず膨張と収縮こそ自然の摂理ではないかと思われたのです。
この膨張(拡大)、収縮(縮小)という見方をすれば世のこと全ての説明が可能と思えました。花というのは収縮している蕾が破裂(膨張)したものでしょうし、呼吸する肺もそうです。心も明るい時は膨張し沈んだ時には収縮していると解することが出来ます。自然現象も社会事象もある時は膨張、ある時は収縮、という変化を繰り返すのが真実と理解されたのです。
無常というのはまさにこのことではないでしょうか。それぞれにスパンの違いはあっても私たちは自分を含めて膨らんだり縮んだりする中で生きていると言えましょう。 天長節、地久節でご記憶されている方もおいでと思いますが、「天長地久」でいう「天地は永遠」というのは無常だからこそです。変化し続けるものは永遠なのです。そして、私たちも膨張と収縮を繰り返す永遠の存在なのです。
膨張と収縮
天行久遠而無窮 天の動きに窮みなく
無常永遠而無終 時の流れも終りなし
時膨張亦時収縮 時に膨らみ時に縮むは
人間地球在其中 我らと地球の定めなり
何十年も前のことになりますが、私はその頃住んでいた家のトイレの壁紙の模様を今も覚えています。小さな二つの図案でした。一つは点を中心に紡錘形を十字に配したもの、もう一つはその十字の紡錘形が四方に飛んで花のようになったものでした。何故そんなことを覚えているかと言えば、私がその図案に一つの意味を見出したからでした。
というのは、作者の意図は知らず、私にはその図案が収縮と膨張という自然の法則を意味していると思えたのです。ビッグバンで始まった宇宙は今なお膨張し続けていると言います。宇宙の誕生で生まれた恒星は進化の果てには中心核だけの矮(わい)星(せい)になるものもあります。宇宙に限らず膨張と収縮こそ自然の摂理ではないかと思われたのです。
この膨張(拡大)、収縮(縮小)という見方をすれば世のこと全ての説明が可能と思えました。花というのは収縮している蕾が破裂(膨張)したものでしょうし、呼吸する肺もそうです。心も明るい時は膨張し沈んだ時には収縮していると解することが出来ます。自然現象も社会事象もある時は膨張、ある時は収縮、という変化を繰り返すのが真実と理解されたのです。
無常というのはまさにこのことではないでしょうか。それぞれにスパンの違いはあっても私たちは自分を含めて膨らんだり縮んだりする中で生きていると言えましょう。 天長節、地久節でご記憶されている方もおいでと思いますが、「天長地久」でいう「天地は永遠」というのは無常だからこそです。変化し続けるものは永遠なのです。そして、私たちも膨張と収縮を繰り返す永遠の存在なのです。
学生諸君! №127
平成24年2月2日
学生諸君!
小学生、中学生、高校生そして大学生の学生諸君、皆さんは昨年の東日本大震災に何を思ったでしょうか。あの時のテレビ、新聞、ラジオの報道。思い出すだけで身の毛がよだつような恐ろしい映像やニュースに信じられぬ思いで見入った人も多かったことでしょう。中には親類など身近な方が被災したという人もいるかも知れませんね。
あの大地震・大津波では二万人もの人が亡くなりました。小さな赤ちゃんもいました。小学生も中学生もいました。大人もお年寄りもいました。そして親を失った子ども、子を失った親たちの悲しみだけが残されました。亡くなった人たちは死にたくて死んだのではありません。死にたくないのに死んだのです。
皆さんに考えて頂きたいのはそのことです。突然の死を目前にした時、人が死にたくないと思うのは、人は人としてしたいこと、しなければならないことがあるからなのです。人はみんなそれぞれ何かをしたくて、あるいは何かをしなければならなくて生まれてくるのです。ですから、それが終わらないうちは死にたくないと思うのです。
皆さん、私たちは誰一人偶然に生まれてきたのではありません。それぞれがしたいことがあって自ら望んで生まれて来たのです。私たちはそれぞれ目的を持って自らの意志で生まれて来たのです。生まれてくることが難しい人間に生まれさせて頂いて自分の課題を成し遂げようとしているのが私たち人間なのです。有難いことなのです。
今年も星祭になりました。 皆さんは星祭のお札をご両親やおじいちゃんおばあちゃんから頂いている人が多いと思いますが、星祭というのは、私たち一人ひとりがそれぞれの人生の目的をしっかり果たしていこうとする祈りなのです。学生とは本来は学生(がくしょう)、仏道を学ぶ僧を言いました。生きている限り私たちは皆祈りの学生(がくしょう)なのです。
どうか皆さん、自分は何をしたくて生まれて来たのか考えて下さい。答えはすぐには出ないと思います。でも是非このことをずっと考え続けて行って下さい。
学生諸君!
小学生、中学生、高校生そして大学生の学生諸君、皆さんは昨年の東日本大震災に何を思ったでしょうか。あの時のテレビ、新聞、ラジオの報道。思い出すだけで身の毛がよだつような恐ろしい映像やニュースに信じられぬ思いで見入った人も多かったことでしょう。中には親類など身近な方が被災したという人もいるかも知れませんね。
あの大地震・大津波では二万人もの人が亡くなりました。小さな赤ちゃんもいました。小学生も中学生もいました。大人もお年寄りもいました。そして親を失った子ども、子を失った親たちの悲しみだけが残されました。亡くなった人たちは死にたくて死んだのではありません。死にたくないのに死んだのです。
皆さんに考えて頂きたいのはそのことです。突然の死を目前にした時、人が死にたくないと思うのは、人は人としてしたいこと、しなければならないことがあるからなのです。人はみんなそれぞれ何かをしたくて、あるいは何かをしなければならなくて生まれてくるのです。ですから、それが終わらないうちは死にたくないと思うのです。
皆さん、私たちは誰一人偶然に生まれてきたのではありません。それぞれがしたいことがあって自ら望んで生まれて来たのです。私たちはそれぞれ目的を持って自らの意志で生まれて来たのです。生まれてくることが難しい人間に生まれさせて頂いて自分の課題を成し遂げようとしているのが私たち人間なのです。有難いことなのです。
今年も星祭になりました。 皆さんは星祭のお札をご両親やおじいちゃんおばあちゃんから頂いている人が多いと思いますが、星祭というのは、私たち一人ひとりがそれぞれの人生の目的をしっかり果たしていこうとする祈りなのです。学生とは本来は学生(がくしょう)、仏道を学ぶ僧を言いました。生きている限り私たちは皆祈りの学生(がくしょう)なのです。
どうか皆さん、自分は何をしたくて生まれて来たのか考えて下さい。答えはすぐには出ないと思います。でも是非このことをずっと考え続けて行って下さい。
登録:
投稿 (Atom)