慣れろ!慣れるな! №160


平成241010

慣れろ!慣れるな!


 慣れろ!慣れるな!、とは矛盾した言いようですが、これはどちらも大切なこと。特に道を学ぶ者にとってはどちらも必要のことと思います。最近、このことを考えていて私たちは慣れることよりも慣れないことの方が難しいと思いました。どちらも努力を要することながら方向が異なるように思えるのです。
 
 養護学校で子どもたちと学んでいる時、学習に必要なことは反復と継続であることを痛感しました。知識でも動作でもそれを獲得するまでは何度も何度も繰り返すことが必要ですし、その反復は一回限りではなく継続することが大切なのです。継続は力なり、という諺がありますがまさにそれです。学習の王道は反復と継続なのです。
 
 これはスポーツでも習い事でも同じですね。 繰り返し続けるから出来なかったこともできるようになり上達することが出来るのです。ですから、慣れるということは物事に習熟し究めるためには不可欠な条件と言えましょう。 野球選手やサッカー選手のファインプレーも反復と継続による慣れによって生まれるのです。
 
 ところが、この慣れには落とし穴があります。おごりと油断です。自分はこんなことまで出来るようになったという自信がおごりになります。 失敗するはずがないという慢心が油断を生みます。いつだったかも申し上げましたが、福島の原発事故はまさにそのおごりと油断がもたらした人災であったのですね。
 
 道を学ぶ人にとって大切なことは慣れた時に慣れないことです。しかし、この慣れないということが難しいのです。 能の世阿弥はその著「風姿花伝」で生涯の芸が確立する二十四、五歳の頃の注意として「いよいよ道を会得した人に事細かに尋ねて一層稽古に励みなさい。自分の一時の花を真の花と思い込む心が真実の花に遠ざかる心(を生んでしまう)」と言っています。
 
 日暮れて道遠し。皆さん、一緒に頑張りましょう。

初心忘るべからず   ~世阿弥「花鏡」~

思ふ秋の日 №159


平成2410月 5


思ふ秋の日
   
  プレリュード ショパン静かに 聞こえ来て 眼差し遠く 思ふ秋の日
  透きとほる 風渡る庭 音もなし 光と影の 秋にこそなれ
 
 秋になりました。くっきりと地面に映った黒い影が日の光を一層際立たせます。風渡る静かな庭を前に懐かしい曲を聴いていると、自然に子どもの頃のことが思い出されます。父のこと、母のこと、故郷のこと、友達のこと。その時々には嬉しさや楽しさだけでなくつらいことも悔しいこともあったはずですが思い出すのは懐かしさばかりです。
 
 記憶の美化というのは人が生きていくための装置かも知れません。美化という装置が働くからこそ人は生きられるという気もします。つい先日、ある葬儀に伺った折、喪主であるご長男がお礼の挨拶で言葉を詰まらせながら母との思い出を話されましたが、亡き人との絆も記憶の美化と凝縮によって一層深まるのでしょう。
 
 そう考えていて、人間には皆さんに知って頂きたいもう一つの装置があることを思い出しました。それは私たちが霊的な存在であるということを意識するための装置なのです。人間は霊的存在なのですが、同時に肉体を持った物質的存在でもあります。 人間として過ごしている時はむしろこの物質的存在の方が前面に現れていることは言うまでもありません。
 
 しかし、年を経て肉体が衰えたり病気になったりすると霊的存在を意識する装置が働き始めるのです。年齢を重ねるに従って神仏に関心を抱くようになるのはそのためなのです。それは実に神によって作られた有難く不思議な装置と言ってよいでしょう。私たちが本来何者であるかということに気づくための装置なのですから。
 
 私たちはみな霊的な存在です。人間として過ごすのは修行の一環に過ぎません。この世の生を終えて帰るべきところは魂の世界、命の海なのです。いま私は思います。私が今まで積み重ねてきたことは永遠の修行者としての本来の自分を知り、さらにそれを深めていこうとするためであったのだと。



 仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり                        ~道元禅師~


イヌネコヒョウ №158

平成24年10月1日


イヌネコヒョウ

 
 先週の動物愛護週間、立て続けにイヌとネコとヒョウの話に接しましたので、その話をご紹介いたしましょう。
 
 一つ目は921日の朝日新聞天声人語に載っていたユキヒョウの話です。それによると、多摩動物園で飼っていたユキヒョウの母親は餌をすべて子供に与えてしまうため、食事の時の部屋を別にしようと自動扉を閉めている時に子が鳴き出し、その声を聞いて戻ろうとした母ヒョウが扉に挟まれて死んだというのです。
 
 二つ目は私の仕事時代の友人、Kさんからの電話です。Kさんが飼っていた大型犬、マルちゃんが死んだという知らせです。何故そのことを知らせてくれたかというと、私がその友人の家に行くと大抵友人はおらず、私が留守番をしているマルちゃんとひとしきり遊んで帰っていたことを知ってくれていたからです。
 マルちゃんは血液がんになって最後一カ月は寝たきりになり、Kさんは夏休み中介護にあたったということでした。Kさんはマルちゃんを何処に行くのも一緒というほど可愛がっていましたから悲しみは言うまでもなかったでしょうが、「悔いはない」と言われました。寝たきりになった一カ月それこそ親身の世話をしたからでしょう。
 
 三つ目は私の娘からのメール。娘の愛猫、元のらネコ、ミャミャの話です。娘は中学生の頃からこのネコを“溺愛”していましたが、このミャミャ、鼻に出来た腫瘍が目にまで及んで最近は餌も水も満足に取れない状態になってしまったのです。それでも健気に生きる姿に感動する娘の悩みは苦しみを少しでも除いてやりたいということでした。
 
 この三つの話は、私たち人間に置き換えられる話ではないでしょうか。人間が失いつつある母性、長寿時代の介護、延命治療のあり方。どれも今の日本社会の大きな問題です。しかもそれは他人のことではなく自分自身の問題なのです。人間としての尊厳を失わず生を全うし死を迎えるにはどうしたらよいか、自分が考えねばなりません。
 

All is well that ends well.   終わりよければすべてよし