月を取ろうとした話 №6

平成20年11月17日 

月を取ろうとした話


 今日は陰暦十月二十日。月冴える季節になりました。今月は13日が満月でしたから今日は寝待月、臥待ち月ですね。ところで「月を取ろうとした話」というのは私の少年時代の恥ずかしいほど幼稚な体験なのです。小学校一年生か二年生であったでしょうか。ある日の夕方、庭で月を見ていた私は月が自分の歩みと共に同じ方向に移動することに気がつき、自分が家に入れば月も家に入るに違いないと思ったのです。私は自分の大発見にわくわくし月から目をそらさず家に入りました。月をこの手で触れることができることを疑いもしなかったのです。語るだに幼稚極まりありませんが私自身はこのことを思い出す度にその時の月の美しさが蘇って懐旧の念を抱かざるを得ません。
 
 ところで、道元禅師はことに月がお好きだったようで私たちがよく拝見する道元禅師の肖像画はお月見のお姿なんですね。その道元禅師の『正法眼蔵』に「都機」(月のことです)という章があります。その「都機」で道元禅師はこうおっしゃるのです。「愚人おもはくば、雲のはしるによりてうごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりてうつらざる岸をうつるとみゆると見解せり、もし愚人のいふがごとくならんは、いかでか如来の道ならん。仏法の宗旨いまだ人天の小量にあらず・・・」
 
 つまりは私の幼ない時の体験、月が自分の歩みと共に動くと見るのは愚人の見解。それと同じように如来の道、仏法の宗旨は人間の浅はかな考えにはないとおっしゃるのです。そして「仏の真法身はなおし虚空の如し。物に応じて形を現はす。水中の月の如し」と言われます。仏の真実の姿が円満無欠、完全であることは水中の月のごとく破れず壊れないと言われるのです。道元禅師は月を眺めながら人間の真実の姿を月として捉えていたんですね。

「秋月皓皓として碧天に澄み、万古不易光彩を放つ」
改めて月を眺めてみることにいたしませうか。みなさまお大切に。


朝晩めっきり寒くなったにゃ~。みなさまお元気かにゃ~ん。今年もあとひと月余り。風邪ひかないでにゃ~ん。