月を差す指 №184

平成25年2月21日
月を差す指



 つい先日、菊川の温泉に行った時のことです。露天風呂に浸かっていると、三歳ほどの女の子が祖父らしき人とやってきました。と、その女の子、来るなり左手を挙げ、人差し指をまっすぐ立てて「つき!」と言ったのです。その通り、女の子の真上には上弦を一日過ぎた弓張り月が金色の光を放って輝いていました。


 私は驚きました。その女の子は来るなりどうして頭上高い月に気がついたのかと。仰ぎ見なければ気づかない月をどうして分かったのでしょう。そして、私はさらに感銘を覚えました。女の子はもう一度、今度は右手を挙げ再び人差し指をまっすぐ天に向けて、私たちに教えるように「つき!」と言ったのです。


 私はそのさまを見て、女の子が夜空に輝く月に全霊で感動していることを知りました。女の子にとってその月は喜びでもあり驚きでもあり感動でもあったに違いありません。いや、女の子にとって月が月と自分ではなく、月が自分、自分が月であったに違いありません。月を指さす自分が自分を指差していたに違いありません。


 女の子のさまを見ていて私もずっと以前、月の出に感動を覚えたことを思い出しました。もう三十年以上も前のことです。仕事の帰り道、自転車をとめて振り返ると、冬枯れの林の向こう、東の空に昇ってくる満月が見えたのです。私はその美しさ、荘厳さに言葉を失いました。夜空に浮かぶように輝く月に口では言えない感動を覚えたのでした。


 縄文時代、奈良・平安時代、いや明治に至るまで人工の明かりのなかった時代、人々にとって太陽や月は畏敬と親しみの存在ではなかったでしょうか。お日さま、お月さま、という言い方がそれを表していないでしょうか。恵みをもたらしてくれる太陽、満ち欠けで時を教えてくれる月が畏敬の存在であったことは、むしろ当然であったと思います。


 私たちはお日さまを思うこともお月さまに感動することも少なくなりました。お日さま、お月さまに変わりはありません。私たちが感動の心を失ったのです。女の子が月を差した指に私はそれを教えられたように思いました。




おさない日は 水が もの言う日 木がそだてば
そだつひびきが きこゆる日
           ~八木重吉「幼い日」~