馬鹿の一つ覚え №468

馬鹿の一つ覚え
平成30年1月26日


 私が養護学校勤務していた頃、「子どもに毎日朝顔に水をやりなさいって言ったら雨の日もカッパ着て水やっててねー」という話を聴いて笑ってしまったことがありました。融通が利かないという点ではまさに表題の「馬鹿の一つ覚え」かも知れませんが、と言って、その子どもの行為は馬鹿の一言では済まされないとも思うのです。

 思い出すのがお釈迦さまの弟子、チューダパンタカ(周利槃特)ですね。チューダパンタカは短い詩一つも容易に覚えることが出来なかったと言いますが、お釈迦さまから与えられた箒一本の教えを守ってくる日も来る日も掃除三昧、ついに大悟して阿羅漢になりました。これこそ良い意味での馬鹿の一つ覚えと言えるのではないでしょうか。

 そうしたら「正法眼蔵随聞記」の中にこんな話がありました。ある日弟子の懐弉さんが「骨身惜しまず仏道を学ぶ行いは?」とお訊ねすると、道元禅師はすかさず「只管打坐」とお答えになり「人に交わり物語せず聾者のごとく唖者のごとくして常坐を好むなり」と言われたというのです。耳聴こえず口きけぬ者のように坐禅に励めと言われたのです。

 ここで道元禅師が「聾者のごとく唖者のごとく」と言われるのは、他のことに気を奪われないということでしょう。それこそ馬鹿の一つ覚えの坐禅です。一つ覚えに徹することが如何に大切かを言われたのだと思います。移り気な私たちであるからこそ耳目を遮断した思いで坐禅に励みなさいと言われるのです。

 宝鏡三昧というお経には「潜行密用は愚のごとく魯のごとし」と、さらに端的に書かれています。人知れず密かな仏道修行はまるで愚者魯者(愚か者)の如く、と言うのはやはり修行に徹する様子、態度を言っているのでありましょう。愚者魯者のようになって初めて修行三昧になるに違いありません。一つ覚えの意味がここにあります。

考えてみれば、これは仏道に限ったことではないと思います。何かなそうと思ったら寝ても起きてもそのことばかり、一つ覚えに徹しなければ物事は成就しないのかも知れません。その一つ覚えになるために一番大切なことはやっぱり素直な心ではないでしょうか。馬鹿の一つ覚えとは素直な人の一つ覚えだと思います。

 
いちずに 一本道
いちずに 一ツ事
       ~相田みつを~

観世音考 №467


観世音考
平成30年1月17日


      道玄玄寂寥     道奥深くひっそりと
      天朗々明澄     天はからりと澄み切って
      一切在天道     すべてのものがそこにある
      万物総同朋     みんな互いにつながって

 私たちが生きているこの地球は宇宙の星の一つです。果てしなく広大な宇宙の片隅にあるという銀河系の中の小さな星です。想像することさえ出来ない無限無窮の宇宙ですが、その天行は奥深く人智の及ばない秩序によっていると思います。そして、一切のものはその秩序の持つ大きなつながりによって存在しているに違いありません。

 私は観音さまもその大きなつながりの一つだと思います。「観世音」は「世音(衆生の苦しみ悲しみ)を観る」という意味。サンスクリット語のアバロキタ(観)とスバラ(音)の合成語です。もう一つ「観自在」という言い方もあって、この観自在は世音を「自在に観る」という意味。アバロキタ(観)とイーシュバラ(自在)との合成語です。

 しかし、観世音にしても観自在にしても「世音を(自在に)観る」ということであれば意味するところは同じでありましょう。では「観る」とは何かです。私はこの「観る」は直観だと思います。観音さまは衆生の様々な願い、あらゆる苦しみ悲しみを「直観」して下さる、それが「観る」ということだろうと思います。

 そして直観して下さった苦しみ悲しみに救いの手を差し伸べて下さること、それが観音さまの「慈悲」だと思います。「慈」は可愛がる、いつくしむ ということ、「悲」は悲しみ憐れむということ、その慈悲には思いやり寄り添うという心が前提になければなりません。困難な状況に同情する心こそが慈悲なのだと思います。
 
 前号でいま私たちに想像し推測する力が薄れているのではないかと申し上げましたが、これも上に述べた思いやり寄り添うことにつながると思います。私たちが観音さまに繋がるということは相手の状況を想像し推測して親身に考えること、そして自分が出来る援助をすることではないでしょうか。



       想像してごらん 何も所有しないって
       欲張ったり飢えることもない
       人はみんな兄弟なんだって
               ~ジョンレノン「イマジン」~