不 憫
令和2年7月18日
胸つぶれるような痛ましい事件がまた起きました。3歳の女の子、梯 稀華(のあ)ちゃんが母親の育児放棄で死亡しました。母親は先月5日から13日までの8日間、稀華ちゃんを一人家に残して外出し脱水と飢餓で衰弱死させたのです。稀華ちゃんの胃には何もなかったと言います。あまりのむごさ不憫さに言葉がありません。
この痛ましい事件を「また」と言いましたのは昨年ちょうど今頃全く同じような事件があったからです。ご記憶の方もお出ででしょう。2歳11か月の女児、土屋陽璃(ひなた)ちゃんが同じように母親の育児放棄で亡くなったのです。陽璃ちゃんの胃の中も空で室内や冷蔵庫には食べ物は何もなかったと言います。
なぜこんな痛ましくむごい事件が続いて起こるのでしょうか。二人の母親は子供を置いて出た後二人とも男友達と過ごしていたと言いますが、その二人は共通して「育児に疲れてリラックスしたかった」「子どもが死ぬとは思わなかった」と言っています。育児が大変なのは当然でしょうが2歳3歳の子どもを放置したらどうなるか思わなかったのでしょうか。
二つの事例を考えると、そこに二人の母親の個人的問題と同時に現代日本社会の暗部を思わざるを得ません。上の二つの事件は明治まで続いた村社会の中では起きなかったことだと思うのです。封建的村社会がよかったとは思いません。しかし、母親の育児放棄で子どもが死ぬということは村社会では起きなかったと思うのです。
村社会の息苦しさを思えばそれを再びとは思いません。ただ村社会は人とのつながり持っていました。いまよく言われる共助社会、地域共同体でありました。子どもは地域の中の子どもとして見守られていました。その社会では母親が育児放棄していなくなってしまうなどということはあり得なかったはずです。
日本はいま今回の事件を社会の問題として捉えなければなりません。今回のような事件が二度と起きないようまず近所同士がつながりを深めなければなりません。公的には特にシングルマザーに対する生活支援や心的支援を充実させなければなりません。痛ましい事件が再び起きないよう公助共助を強めなければならないと思います。
瓜食めば子ども思ほゆ
栗食めばまして偲はゆ
いづくより来たりしものぞ
まなかひにもとなかかりて
安眠しなさぬ