ノラ猫は可哀想… №714

 ノラ猫は可哀想…

令和5年1月18日

  先日、新聞の「女の気持ち」という欄に「野良猫チビ」という投稿が載っていました。寄稿されたのは益田市の78歳の方。そのお方のところに最近生まれて間もない子ネコがエサを求めてくるようになったのだそうです。どうもその家の13歳になる飼い猫のエサが欲しくて来るようになったらしいのです。

 ところが、その家のオス猫はそのチビ猫を目の敵のように追っかけ回すし、ご主人も「一度エサをやると癖になるからやるな」と言うのだそうですが、そのお方はそのチビが可哀想でご主人に内緒でエサをやっているのだそうです。でも半面、エサをやり続けていいものかどうかジレンマに陥っているというのです。

 その方が「寒い中どこで寝ているかとても心配です。このチビが可愛くて見捨てるわけにはいかないのです。これからも主人に内緒でエサをやり続けるつもりです」と言われるのを聞いて身につまされるものがありました。実はこの観音寺にも似たような状況のノラ猫がいるのです。もう何年にもなりますので「半ノラ」と言った方が正しいかも知れません。

 思えばノラ猫は可哀想です。大金持ちの豪邸に飼われ、人間顔負けの食事をしているネコもいるのにノラ猫は十分なエサはおろか真冬でも温かな寝場所もありません。イヌには追いかけられ人にも追い払われます。火の暖かさも人のぬくもりも知ることができないノラ猫は可哀想の一言に尽きます。生物はすべてこの世の生を明るく楽しく生きるべきではないでしょうか。

 しかし、世界にはいまノラ猫のような悲惨な苦しみに生きている人がいます。ウクライナの人たちは厳寒の今、ロシアの発電施設攻撃による電力不足で人々は明かりも暖房もない生活を強いられています。ロシアはそれを意図的にしているのですから非道極まりありません。


 先日はアフガニスタンの現状放映がありました。アフガンの人々もタリバン政権になって以来苦しい生活を余儀なくされています。最貧層の人々は麻薬に救いを求め、シート一枚覆っただけの河原の穴に寝ているのです。その中の一人、将来の希望を訊かれた若者が「安心して眠り食事が出来る平和な生活がしたい」と答えたことに胸が痛みました。苦しい生活を強いられている世界の人々に早く平和をと願わざるを得ません。


 

 ウクライナに平和を!

 アフガニスタンに平和を1

 ミャンマーに平和を!

母の願い №713

 母の願い

令和5年1月17日

 最近しきりに母のことが思われてなりません。自分の生みの母もそうですが、広く世の母、母という存在について思うことが多いのです。私たち人間はむろんのこと、トリムシケモノたち一切の衆生、一切の生物は母あってこの世に生まれてきます。この母という存在は一体何なのか。そのことがしきりに思われるのです。

 仏教では生物の生まれ方の違いによって胎生(たいしょう)卵生(らんしょう)湿生(しっしょう)化生(けしょう)4つに分類し、これを四生と呼んでいます。このうち化生(何もないところから生まれる)を除けば、胎生(母親の胎内から生まれるもの)はむろん、卵生(卵から生まれるもの)も湿生(じめじめしたところから生まれる虫など)も母あってこその誕生と言えます。

 一切の生き物が母から生まれるということは命がつながるということです。生き物はすべて母によって命のつながりを生きるのです。命のつながりを担う母は本能的な願いを持っているに違いありません。我が子が無事成長して子がまた命のつながりを果してくれること。そのために平和な一生を送ってくれること。それこそが母の願いではないでしょうか。

    宇宙万物従母成    宇宙のすべては母に成り

    一切衆生従母生    衆生すべては母に生まれる

    母唯一祈願共存    母の願いはともに在ること

    共存共在即和平    世界のみんなが平和であること

 今回の法語は上に述べた母の願いを作詩しました。父母恩重経に「若し子遠く行けば、帰りて()(おもて)を見るまで、出でても入りても之を(おも)い、寝ても()めても之を憂う」という一節がありますが、母が子を思う気持ちはまさにこの通りでありましょう。母はたとい自分の命を捨てることがあっても子の命を守ろうとするのです。


 ロシアのウクライナ侵攻によって多くの命が失われました。我が子を戦場で失った母もいるでしょう。幼い我が子を砲撃で失った母もいるでしょう。命のつながりを使命とする母の嘆き悲しみは尽きることがありません。ウクライナに平和を、すべての母に安心を、と祈らざるを得ません。


這えば立て 立てば歩めの 親心

    われに寄りくる 年は忘れて

           二宮尊徳


観音寺、今年の思い №712

 観音寺、今年の思い

令和5年1月3日

 たより、年頭号では当観音寺の今年の抱負についてもお話しするつもりでしたが、国への要望と苦言が先になって寺のことについては何も申し上げられませんでした。寺は本来みんなの寺であるべきだと思いますので、そのためにはどうしたらよいのかをお話し、改めて皆さんのご意見も聴かせて頂きたいと思います。

 昨年11月にこのたより№703号で「寺の未来」を書きましたね。寺の未来を考える3人の識者の意見を紹介しましたが、それを読んで神奈川のKさんと私のカミさんが意見を寄せてくれました。Kさんは3人の識者の中では現実と今後の過疎化などの社会的変化を考えると寺社の見通しは暗いと言われた石井国学院大教授の意見に近いということでした。

 その上でKさんは今後寺社は「全く新しい形態を考え、むしろ少子化を奇貨として新鮮な提示をしてみてはと考えます」と提言下さいました。Kさんおっしゃる通り、否応なしの少子高齢化で寺社ばかりでなく社会全体が変化を余儀なくされています。出来ていたものができなくなることによる縮小や衰退、消滅を覚悟せざるを得ないのです。

 カミさんも上のことを承知した上で「訪れた方々の心の拠り場となるようなあり方をお寺側から開放していけばいいかも知れませんね。そんな中から祈りの機会・場として人々の心に根差していくように思います。心の拠り所を求めているお年寄りはたくさんいらっしゃるのではないかしら。がんばれ!お寺」と励ましてくれました。

 Kさん、カミさんが寄せてくれた助言に私は大変勇気づけられました。寺の現実は明るいものではありません。しかし、その現実から逃れることも出来ません。とすればKさんおっしゃるようにそれを奇貨とし、カミさんが言ってくれたように寺本来のあり方、みんなの心の拠り所になることを目指すしかないと思いました。


 結論です。私はこの観音寺はみんなのお寺になって欲しいと思います。住職もお経もそっちのけ。誰でも自由に来てお茶を飲みながら話したいこと聴いて貰いたいことを話したり聴いたりできる場所にしたいと思います。それを実現して下さるのはお詣り下さる皆さん。私はそのお手伝い。これが今年の私の願いです。


「えっ、このお寺住職いるの?」

これが私の願いです。



新年に思うこと №711

新年に思うこと

令和5年1月1日

令和5,新しい年になりました。まずは新年おめでとうございます。皆さまはどんな新年をお迎え下さったでしょうか。ともあれ元気に年明けが迎えられたらまずは目出度いことであります。人間、金より先に大事なのが健康です。新しい年に今年も健康に過ごしたいと願われた方も多いと存じます。寺もまたこの一年皆さまのご健康をお祈りいたします。

 前号(この一年)では悲しく悔しい話ばかりになってしまいましたので本日は私が新年に当って望むこと、日本がこのようにあって欲しいということを申し上げたいと思います。

 その一つ目は「平和外交」です。ロシアのウクライナ軍事侵攻で世界の国々は防衛費の増強に舵を切りました。日本も例外ではありません。昨年末、岸田首相は日本の防衛費をこの5年間で43兆円に増額することを明らかしましたが、それは結局日本が軍拡競争に加わることにしかなりません。軍拡より先に日本は憲法9条に基づく平和外交をすべきです。

 関連して私が以前から望んでいることは自衛隊の改組です。自衛隊が災害復興に大きな貢献をしていることは多くの人が認めるところだと思います。その状況をさらに一歩進めて自衛隊を「地球災害自衛隊」にしたいのです。海外でも災害復旧に力を発揮してくれたらそれこそが世界を巻き込む平和外交になるに違いありません。

 平和に関してもうひとつ、日本が努力すべきことは国連の機構改革です。国連が国連としての意見をまとめたくてもロシア中国など常任理事国の拒否権のためにそれができないことを私たちはいやというほど思い知らされました。国連の改革は急務の課題であり、日本はその改革に尽力すべきだと思います。


望むこと、二つ目は「脱原発」です。いまこれもロシアが起こした戦争によって石油やガスなどのエネルギー価格が高騰していますが、政府はこれに乗ずるかのように原発の再稼働や運転期間の延長、さらには新増設までを言い始めました。しかし、福島原発事故は終わっていません。それを忘れてはなりません。絶対安全な原発はありません。原発はSDGsに反するものなのです。電力需要がいかに逼迫しても原発に回帰してはならないのです。あらら新年早々また苦言になってしまいました。お許しください。


夢ある日本、希望の持てる世界をつくるのは

私たち一人ひとりにかかっています。