国民皆適所 №398

国民皆適所
平成28年9月19日



 
 厚生労働省の発表によると、今年全国の100歳以上の人は昨年より4124人増えて65692人と過去最多。46年連続の増加だそうです。男女別では女性が87.6(57525)と圧倒的に多く、最高齢の女性は明治33年生まれ、鹿児島県喜界町の田島ナビさん116歳だそうです。また今年度100歳を迎える人は31747人とのこと。いやすごい、ですね。

 因みにこの山口県を見ると、この915日現在、100歳以上の方は昨年より62人増えて1119人(女989、男130)でやはり過去最多。今年度100歳を迎える人も昨年より49人増の526人(女446、男80)だそうです。人口10万人当たりの都道府県別100歳以上では6位ですから山口県は長寿県と言えるのかも知れません。

 しかし、問題は長寿社会の中身ですよね。この数年、敬老の日に考えることは、長寿イコール幸せか、ということでした。そして今年もまた同じ思いを否めずにいます。住む家を失い、施設に入ることも出来ずに“漂流”する高齢者がいるという過酷な実態。そこまではいかなくとも孤独死を免れない独居老人の増加、老老介護等の問題が誰の身にも迫っています。

 国はいま「一億総活躍」と言いますが、私はこれに違和感を覚えてなりません。むろん、その活躍とは「その人なりの」という前提があるとしても、これからの時代に「活躍」という言葉が相応しいとは思えないのです。活躍を否定するのではありませんが、高齢化が進む一方の時代にはそれに応じた社会が必要ではないかと思うのです。

 そこで提案したいのが表題の「国民皆適所」です。人は高齢化するほど個人差が大きくなっていきます。身体はもちろん精神面社会面、すべてにおいてそれぞれになります。大切なことはその時その人に応じた場所、仕事が得られるかどうかです。私の言う適所とは「その人に相応しい場所」です。生きがいを持って過ごせる場所です。

 これは基本的には自助が第一番であることは申すまでもありません。何をしたいか、どこに行きたいかはまず個人です。しかし、その個人を支えるのは公助、共助でしょう。高齢化社会にあって国民皆適所、誰もが自分に相応しい場所が得られるような施策が実施されることを国及び県に望んで止みません。



      すべて国民は、健康で文化的な
      最低限度の生活を営む権利を有する。
             ~日本国憲法第25条~

布施は修行 №397

布施は修行
平成28年9月18日
 供養や法要の折、お寺に下さる金品を布施と言いますが。皆さんはこの布施をどのようにお考えでしょうか。俗に「坊主丸儲け」という言葉がありますが、布施はこの類だとお思いでしょうか。時代や社会の変化でお寺に対する意識も変わりつつある今、この布施をめぐる動きが仏教界の大きな関心事になっています。

 先達て、Kさんが持ってきて下さった日経新聞に「明朗お布施 仏教界に波紋」(16/8/14付)と題する記事がありました。インターネット通販のアマゾンジャパンが、法事や法要に僧侶を定額35000円で紹介するという「お坊さん便」を始めたことに対し、全日本仏教会が「宗教のビジネス化」だと反発しているというものです。

 記事によれば、この僧侶紹介サービスはアマゾンに先行したものもあり、それらのいずれもが会員数を増やしている背景には「進む寺離れ」があることを指摘しています。確かに「檀家離れ・寺離れ」は私たちの悩みの種ですが、この寺離れが「お坊さん便」を流行らせ、布施の定額化に繋がっているならば正直残念な思いがします。


 と申しますのは、布施というのは「修行」だからです。えっと思われる方がおいでかも知れませんが、私たちの修行徳目である六波羅蜜の第一番が「布施」となっていますね。布施というのは、寺と檀家だけのことではありません。私たち誰もが布施しあうこと、それは互いに助け合って生きるという修行に他ならないのです。

 この布施行は各人の力量に応じてなされるものです。であれば布施は量の多寡、額の多少が問題ではなく、それぞれの精一杯の真心が大切なのです。これまで寺が法要の布施に額を提示してこなかったのは、これを互いの修行としてきたからでありましょう。それを思うと「お坊さん便」は仏教の根本を無残にするものと言えないでしょうか。

 確かに今の風潮からすれば、布施が定額化している方が分かりやすくてよいということかも知れません。葬儀や法事の時、お布施の額に悩むとすれば定額化を有難いと思われる方もおいででしょう。しかし、申し上げましたように布施は寺と檀家だけのものではありません。布施を互いの修行と捉えて頂きたいと願って止みません。


   笑わせられました。
       「ねんごろな読経お布施を包みかえ」
                  
              ~16/9/10 NHKぼやき川柳~




毎日観音 №396

毎日観音
平成28年9月17日

この小月観音さまにはいつも沢山の方がお詣り下さいますが、むろんお詣りの仕方はそれぞれです。本堂の土間で線香をあげ手を合わせて帰られる方もいますし、本堂に上がってお経を読まれる方もいます。中にはお経を読まれるばかりか、歴住さんの仏壇や位牌棚まで丁寧にお詣り下さる方もあります。いずれにしても有難いことと思います。

 お詣りの回数も人それぞれですね。仕事をされている方は、来られる日が限られるのは当然ですが、毎月一日を月参りと決めている方もいますし、中には毎日決まっておいで下さる方もあります。毎日の方はお天気に拘わらずですから恐らく年350日はお詣り下さっているのではないでしょうか。文字通り有難いことであります。

毎日といえば、毎朝6時のお勤めにおいで下さる方もあります。むろんこれも、毎日決まった時間においで下さるということは決して容易ではありません。疲れている時もあるでしょうし寝足らず眠い時もあるでしょう。まして雨風の時など家を出るのは気合いが必要でありましょう。これまた有難いことであります。

ところで、なんでこんな話かと申しますのは、皆さまに観音さまに親しくなって頂きたいからです。より強くそしてより固く観音さまにお近づきになって頂きたいと思うからです。より多くと言えば毎日に越したことはありません。しかし、毎日はお詣りになれずとも祈ること、思うことは出来るのではないでしょうか。

そして、そのことによって観音さまにより近づくことが出来るのではないでしょうか。卑近な例えをすれば、滅多に会うことのない人より毎日のように顔を合わせる人の方がより親しみを覚えるのは当然でありましょう。それと全く同じことが観音さまにも言えると思います。毎日観音さまに祈ること、それが大切だと思うのです。

いつも申し上げていることですが、祈りは修行、修行はトレーニングです。毎日毎回の積み重ねです。その積み重ねこそが観音さまへの高みに一段一段と上がらせてくれるのです。時には休むこともあっていいのです。しかし、倦まず弛まず日ごろ不断の努力を重ねていくことが大切なのです。


   耳に聴き 心に思い 身に修せば
         やがて菩提に 入相(いりあい)の鐘
                   ~道歌~