さげもん幻想 №727

 さげもん幻想

令和5年4月17日

 前々号(人生は「掃除」)で手芸が得意な方のことをお話ししましたが、何とそのお方の作品を寺が頂くことになりました。頂くのは机に置く小さな飾り物と思っていましたが、持って来て下さったのは「えっ、これ頂いていいんですか」と言うほど立派なさげもんでした。下げ輪に一列5個の細工が5列下げられています。

 さげもんは皆さまもどこかでご覧になったことがあると思います。形状は「吊るし雛」と同じです。余談になりますが吊るし雛の始まりは江戸時代だそうですね。高価なひな人形を手に入れることができない一般の家ではお母さんおばあちゃん叔母さん近所の人たちがみんなで小さな人形を作って持ち寄り、それを吊るして飾ったというのです。

 その原点は生まれてきた子どもの幸せを願う祈りです。食べ物に困らないように着るものに困らないように住む家に困らないようにと周囲の人たちが祈りを込めて作った吊るし雛は赤ちゃんの幸せを祈る大事なお守りでありました。生まれた子の幸せを願う切ないほどの親の気持ちを感じてなりません。

 さげもんも同じような意味で生まれたのでありましょう。何と「日本三大吊るし飾り」というのがあるそうですが、そのうちの一つ、柳川のさげもんは柳川藩の奥女中が着物の残り布で子どものおもちゃや琴爪入れを作ったのが始まりと言い、また酒田祭の山車に飾られる酒田傘福は傘の中には魂が言われて子どもの健やかな成長を願ったのだそうです。

 吊るし雛やさげもんの原点には子どもの健やかな成長を願う親心があることを知って改めて頂いた飾りを見ていてふっと幻想にとらわれました。飾りを少し離れてみると下げられているきれいな布の球が空中に浮かんでいるように見えるのです。あたかもその一つひとつが魂そのものであるように見えるのです。


 さげもんをつくり始めた人はさげもんに魂を意識してはいなかったと思います。さげもんを伝承している人も同じだと思います。しかし、私はそのさげもんに魂そのものを覚えてなりません。私たちは本来このさげもんのきれいな球のような存在ではないでしょうか。さげもんはそのことを教えてくれているのではないでしょうか。


無垢清浄


「UFOくまんばち」考 №726

 UFOくまんばち」考

令和5年4月16日

 フジが咲きました。今年は紫フジも白フジも例年になく沢山の花房をつけて、いまその紫フジが満開です。そのフジにいま毎日のようにくまんばちが蜜を吸いに来ています。アサギマダラがフジバカマを好むようにくまんばちはフジの花を好むのだそうですね。くまんばちは花から花へと密吸いに余念がありません。

 そのくまんばちを見ていますと、ずっと密探しをしているのではなく時折フジの近くを飛び回っています。時には2匹がじゃれつくような仕草をしますが、大抵はホバリングの後前後左右に瞬間移動することを繰り返しています。その様はリムスキー・コルサコフが作曲した「熊蜂の飛行」そのものです。

 その様子を見ていて二つの疑問を覚えました。一つは飛行のエネルギーはどうしているのだろうかということ。もう一つは前後左右に瞬間的に移動できるのはなぜだろうということです。くまんばちは鳥のように気流に乗って飛ぶことは出来ないでありましょう。ホバリングの時の激しい動きのエネルギーはどこにあるのでしょう。

 くまんばちはハナバチですから栄養源は密と花粉ですが、一体密と花粉だけであの激しい運動のエネルギーが賄えるのでしょうか。不思議でなりません。もう一つの瞬間移動もどうしてそんなことができるか不思議です。他の生物でくまんばちのように瞬間的に体を移動させることができるものはあるでしょうか。

 くまんばちの飛び方を見ていて連想したのはUFOでした。UFOだと言われるテレビの映像を見るとそのUFOも空中で停止していますね。そして次の瞬間に移動してしまいます。くまんばちはそのUFOと全く同じ動きをすることができています。くまんばちはUFOだと言えるのではないでしょうか。


 くまんばちの飛ぶさまを見ていて改めてそれぞれの生物の不思議な力を思わざるを得ませんでした。くまんばちのように人間には不可能な動作ができる生物がいるということは何を意味しているのでしょうか。私たちはそこに何を学ぶべきでしょうか。人間に限っても人は自分だけの能力を持っているということでしょうか。


鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

          金子みすゞ

永遠の真理 №725

永遠の真理

令和5年4月8日 

 今日は花祭り。お釈迦さまのお誕生をお祝いする日ですね。でも考えてみれば2500年以上も前のお釈迦さまの教えが今なお連綿として受け継がれ、私たちがこうして毎年、お釈迦さまのお誕生日をお祝いしているってすごいことですよね。正確には分かっていませんがお釈迦さまは紀元前400年も前の方なのですから奇跡と言うべきでありましょう。

 では、どうしてこんな奇跡が生まれたのでしょうか。私はそこにこそ仏教の仏教たる所以があると思います。それは教えが真実であったからではないでしょうか。いくら教えを説いてもその教えが真実でなければやがてその教えは消えていきます。うそ、偽物の教えは教えとは言えません。真実真理の教えこそが本当の教えなのです。

 皆さんはお釈迦さまの教えは何だと思っておいでですか。先日もこのたよりで申し上げましたが、お釈迦さまは私たちが生きる上で大切なことは戒を守ることだと言われましたね。殺さない、盗まない、人としての道を守る、嘘をつかない、などがそれですね。それらは確かに私たちが守るべき大切な教えです。道徳でもありましょう。

 しかし、お釈迦さまの教えにはもう一つ真実真理の教えがあります。三法印、「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」がそれです。この三つの教えは道徳ではありません。真実真理を示して下さったのです。私は中でも「諸行無常」を思ってなりません。すべてのものは変化し続けるというのは永遠の真理だと思うのです。

     釈迦生涯教寂光    釈迦は真理を説き給う    

     只管諭諸行無常    無常は真理と説き給う

     無常則万物流転    万物流転はそれを言う

     万物寂光則無常    諸行無常は真理なり


 お釈迦さまは死に臨んでの最後の説法でも「世は皆無常なり、會うものは必ず離るること有り、憂悩を懐くことなかれ」と言われました。お釈迦さまは自らの死に臨んで身をもって私たち自身が無常の存在であることを示されたのです。私たちが真理そのものであることを教えて下さったのです。


「世は實に危脆(きずい)なり、

 牢強(ろうごう)なる者なし」

         <涅槃経>


 人生は「掃除」 №724

 人生は「掃除」

令和5年4月1日

 私が存じ上げている方に手芸が大変得意な方がおられます。その方がお勤めになっている施設の受付には布で作った季節季節の飾り物が置かれていて訪れる人の目を楽しませ心を和やかにしてくれています。手芸の作品にはそういう力があるのでしょう。ともすると、慌ただしくなりがちな気持ちをほっとさせてくれるのが手芸ではないでしょうか。

 その方が時ごとに作った飾り物を家でも飾りたいと思うのは当然でありましょう。自分も見たいと思うでしょうし、他人(ひと)にも見て貰いたいと思うでありましょう。でも、なんです。その方のご主人は「飾ればほこりがつくから飾るな」と言うのだそうです。ですからその方の作品は押し入れにしまわれてしまっているというのです。

 それを聴いて思いました。確かに置き物や飾り物は飾って置けばほこりがつきます。しかし、だからと言ってしまいこんでしまったら折角の飾り物を見ることは出来ず、その飾り物を見てほっとする安らぎを味わうことも出来ません。毎日の生活の中に安らぎが大切であることを考えるともったいないことではないでしょうか。

 申し上げましたように飾り物であれ何であれ、置いてあるものには必ず塵ほこりがつくことは避けられません。それは当たり前すぎるほど当然なことです。しかし、お考え下さい。塵ほこりがつかない物なんてありますか。ほこりが着くことを承知の上で着いた塵ほこりを掃除するのが私たちの毎日ではないでしょうか。

 私たちの身体からしてそうなのです。私たちは生きるために食物を摂取しますが、その過程には必ず老廃物ができます。私たちの身体はその老廃物を大小便として排泄しています。いわば体の掃除です。それが、代謝です。その代謝、摂取と排泄とういう循環なくして私たちは生きていかれません。掃除と言うのはその循環の大切な一環なのです。

 永平寺にいる時、修行僧の日常は掃除に尽きると思いました。永平寺の日課は掃除が中心です。朝の回廊掃除、午前と午後は境内の掃き掃除と草取り。毎日がその繰り返しです。思えば私たちの一生は掃除ではないでしょうか。毎日毎日、来る日も来る日も掃除を繰り返す。私たちの人生は「掃除」なのではないでしょうか。


前にも同じこと言ったことあるよね。

「人生はゴミ出しだ」って。