「死」を考える №433


「死」を考える
平成29年5月17日


 先達てのこのたより№428(潔い死)で、すい臓がんを潔く受け止め、お世話になった方々へのお別れをして明るくこの世を去られたKさんのことを申し上げましたが、それをお読み下さった方から思いがけず沢山のお手紙を頂きました。中には私のことを「大丈夫ですか」とご心配下さる方もあって恐縮いたしました。厚く御礼申し上げます。

 お手紙を下さった大半が私とほぼ同年齢の方々だったのは、死が他人ごとではない歳ということが大きいと思いますが、それに加えて私たちが直面している長寿と裏腹の問題。認知症のことや医学医療の進歩に反する体や心の苦しみがあるのだと思います。生きることが難しい時代は死ぬことも難しい時代と言えるのでありましょう。

 「ボケる前に死ねてラッキー」と明るく言われたKさんに「高潔なお人柄に頭が下がります」とおっしゃる方。「(いかに死を迎えるかは)人間の課題」とおっしゃる方。ご感想は様々でしたが、ご主人を同じようにすい臓がんで亡くされた方からは一言「心に沁みました」と頂きました。その一言の思いが身に沁みました。

 年齢の違いこそあれ死は誰にでも公平に訪れます。いえ、訪れるというより、死そのものは生理的なもの、わが内なるものだと思います。ですから厳密に言えば「死の条件が整った時に死になる」ということだと思います。その点、頂いたある方の感想、「死もまた自分の一つのパーツのようなもの」というお考えには共感しました。

 その方は「死神様はいきなりポコッと現われるのではなく気付かないけど隣をコソッと歩いている多分ネコみたいな?」と言われるのです。私も全く同じように思います。私たち人間は生と死を同時に生きているのではないでしょうか。その方が「死もまた自分の一つのパーツ」と言われるのはその意味ではないかと思うのです。

 そのお方はこうも言われます。「誰にとっても潔く死を受けとめることは簡単ではないはず。それまでにどれだけ物事を見極め自分の言葉で消化してきたかで違ってくるのではないでしょうか」と。これも全くその通りだと思います。脱帽です。生き方は死に方。死に方は生き方。改めてそう思いました。
 
 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
 サヨナラダケガジンセイダ

     井伏鱒二<厄除け詩集>