五月雨お見舞い申し上げます №638

 五月雨お見舞い申し上げます

 令和3年6月18日

  当地山口県は先月15日、平年より22日も早く梅雨入りしたのにその後雨はさっぱり。梅雨明けしたような暑い晴天続きでしたが先日ようやくこの時期らしい雨が降りました。降れば降ったで鬱陶しさを覚えますが降らずでは稲も育ちません。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。お見舞い申し上げます。

 本日618日は旧の59日。この時期に降る雨が五月雨、すなわち梅雨という訳ですね。歳時記にはこの五月雨を詠んだ句が沢山載せられています。奥の細道の「五月雨を集めて早し最上川」、蕪村には「さみだれや大河を前に家二軒」という句があります。往時は五月雨がより身近に情緒深く感じられていたのでありましょう。

 見ていたら蕪村にもう一句、「さみだれのかくて暮れ行く月日かな」というのがありました。奇しくもヴェルレエヌが「都に雨の降るごとく わが心にも涙ふる」と唄ったように音もなく静かに降る雨は私たちに何かを思い出させまた何かを思わせるのかも知れませんね。そんなことを思いながらできたのが次の詩です。

     霖雨蕭々注無辺    そぼふる雨の降りやまず

      雨滴千万如逝川    めぐる雨水の一滴が

     遊行悠々無際限    命無限の旅をゆく

     人生逆旅全同然    思えば同じこの我ら

 何千何万という雨の一滴。その一滴一滴が旅を続けていきます。源流の一滴は小さな流れをつくりやがてその小さな流れが川になり大河となって海に行きます。ある時は水蒸気になりある時は氷になり、ある時は清らかな流れになりある時は暴れる濁流となって一瞬も滞ることなく無限の旅を続けていくのです。

 思えば私たち人間、私たちの人生もこの水の旅と変わるところはありません。人生山あり谷あり一瞬の休みもなく山谷の旅を続けていくのです。毎日食事しその食物をエネルギーとして日常という旅を続けます。何十兆という私たちの身体の細胞も瞬々刻々に新旧交代を続けます。人間も水と同じように永遠の旅人なのです。

死ぬも生きるも ねえおまえ

水の流れに 何変わろ

おれもお前も 利根川の

 船の船頭で 暮らそうよ

             <船頭小唄>

切なさの先にあるもの №637

 切なさの先にあるもの

 令和3年6月17日

  先日K子さんに切ない話を伺いました。皆さんは「ワタシが日本に住む理由(わけ)」とでいうテレビ番組をご存知ですか。毎週水曜日の夜BSで放映されているそうですが切ない話というのはその番組の話です。話を教えてくれたK子さんは改めてその話に涙ぐんでおられましたが、聴いた私たちも同じように切ないことでした。

 話というのはこうです。スペイン生まれのホセ・アントニオさんは中学卒業後父親のレストランで働き始めますがゲームに夜遊び放浪旅とチャラ男人生まっしぐら。そんな中日本に来て日本人女性と恋に落ちて結婚、二人の子どもに恵まれたのも束の間、その愛する妻が病のために二人の子どもを残して亡くなってしまったというのです。

 お母さんが亡くなった時下の女の子はまだ一歳にならなかったそうです。その子はむろん上の子にとってもなくてはならないお母さん。お母さんにとっては一時も離したくない二人の我が子。どちらにとってもかけがえのない親子なのにその間が無惨に引き裂かれるという悲しみは察して余りあります。

 お母さんが二人の子どもとご主人に残した手紙には「みんなありがとう。お母さんは空からみんなを見ています」と書かれていたそうです。これから先子どもたちがお母さんがいない淋しさをどれほど感じなくてはならないだろうかと考えると子どもたちが元気に明るく育ってくれることを祈らざるを得ませんでした。

 でもこの話、人の世の悲しみというだけなのかと考えていて思うことがありました。それはこの家族は間違いなく霊的な関係を強くする、ということです。お母さんを慕う残された3人、そしてその3人を空から見守るお母さん。この家族はこれから生きていくうちに明らかに霊的なつながりを深めその縁を強くしていくだろうと思います。

   恐らく来世、この家族は何らかの形で再び巡り合うに違いありません。そしてその時には今生でのつながりをさらに強くするに違いありません。縁というのはそういうものだと思います。強い縁で結ばれたものはいつかまた間違いなく再会を果たします。その時までどうかこの家族に幸あれ。幸あれソワカ。


  縁により 出逢い頂く 人生は

  有難きかな 有難きかな

「出生前診断」是非再考 №636

 「出生前診断」是非再考

 令和3年6月11日

  前号で出生前診断の是非を考えましたが紙数のこともあって言い足りない思いでいた折りしも毎日新聞(2021,6,4)に「新型出生前診断の課題」として識者3人の意見が載せられていました。それらの意見に共感するところが大きかっただけに一層「出生前診断」に疑問を思わざるを得ません。是非について再考したいと思います。

 上の識者、関沢明彦(昭和大学医学部教授)、玉井 浩(日本ダウン症協会理事・大阪医科大研究所長)、斎藤加代子(東京女子医大特任教授)の3氏に共通する第一の指摘は出生前診断によって優生思想が助長されるのではないかという懸念です。玉井さんは検査が一斉化すれば障害者差別をさらに強化することになると言います。

 いまこの出生前診断を受けて陽性となった方の9割が中絶を選んでいることは前号でも申し上げましたが、これが常態化すれば障害者排除という優生思想につながっていくことは目に見えています。玉井さんはすでにダウン症児を育てる母親が検査を受けなかったことを責められたりすることがあると言っていますがそれは優生思想に外なりません。

 3氏共通のもう一つの指摘は検査の前後に遺伝カウンセリングが十分に行われていないことです。無認定施設でその傾向が強いにも関わらず規制がないために無認定施設は減るどころか急増していると言います。今後さらに様々な出生前診断が導入されれば検査料目当ての施設が増えて障害者排除の優生思想が助長されていくことは間違いありません。

 もう一つ、3氏が心配していることは出生前診断が社会の多様性を失わせかねないということです。同感です。人間社会は老若男女もとより強者弱者障害者天才など様々な人がいて人間社会なのです。人間は誰しも修行者です。分けて障害者は特別な意味を持った修行者です。その修行者を排除することがあってはならないのです。

   今回の私の結論。出生前診断は凍結すべきです。国は改めて出生前診断の是非から検討すべきです。その上でなお実施するのであればその前に障害児出産前後の助言と支援を今以上に充実させその情報を十分に提供する体制づくりを優先させるべきです。それなくしての出生前診断は国を誤った方向に導くだけと思います。


  個々人の考えが社会のコンセンサスになれば

 (障害者差別への)さらなる同調圧力を生む

               <玉井 浩>