素心ということ №115

平成23年10月30日

素心ということ

    有明の 天心の月 影白く 秋風渡る 僧院の庭
    透明の 午後の光の 秋の庭 真白き風の 吾を吹きゆく

 秋深くなりましたね。先日、上の二首を詠みながら「白い」ということを考えました。表題の素心とは素直な心を言いますが、「素」は白いという意味です。秋の異称を素秋、白秋と言いますが、これは陰陽五行説で白を秋に配するところから来ています。芭蕉さんの「奥の細道」に「石山の石より白し秋の風」という句がありますが、これも秋の白さを詠んでいますね。

 ところで、上の拙詠第一首は先日、二十三夜近くのものです。往時、「二十三夜待ち」という信仰がありました。陰暦二十三日の夜、月待ちをすれば願い事が叶うというのです。この頃は月の出が遅いので明け方近くになっても月が天中にあるのですが、その月の光が白々と庭を照らす中、涼しい風が庭を吹いていく景色は誠に印象深いものがありました。

 第二首はつい先達てのことです。庭に注ぐ午後の光の中に立っていると、まさに白いとしか言いようのない風が自分を吹きぬけていきました。秋の光は他のどの季節にもない趣きがあると思いますが、それは清冽ということではないでしょうか。その清冽な光の中の透明な風は月光の中の涼風に劣らず至福を感じさせるものでした。

 そんな風景の中で私は「素心」という言葉を思い出しました。素心とは申し上げましたように素直な心、飾り気のない清らかな心を言います。純粋という言葉がありますが、素心は純粋という言葉にも置き換えられると思います。心に()じりけがないということは邪心がないということです。よこしまな思いがないということです。

 私の存知あげている方にとても澄み切った印象の方があります。私はその方にお会いする度清らかさと暖かさを感じますが、それはその方に邪心がないからに違いありません。人にいつも素直に邪気なく接しているのでありましょう。だからこそ澄んで見えるのだと思います。私もかくなりたいと思います。



    もろもろの(ねが)()を去り
    一物(ひとつ)をも()つことなく
    多くの煩悩(けがれ)より 
    おのれを (きよ)くすべきなり 
              ~「法句経」~