春紅葉幻想 №681

 春紅葉幻想

令和4年5月17日

 昨年は都合で叶いませんでしたが毎年11月、大寧寺さんの法要随喜の帰り道に西念寺さんに寄って紅葉狩りをしています。西念寺さんは隠れた紅葉名所なのです。先日やはり大寧寺さんからの帰り、春はどんなかと思って寄ってみました。「春紅葉」なんて言葉はありませんが、秋とは違った趣はまた一興。拙詠をご披露申し上げます。

      空おおう緑したたる紅葉葉をゆらしゆらして風通りゆく

 その日は涼しい風が吹いていました。その涼しい風が紅葉の枝を揺らし葉を揺らして通り過ぎていきます。風にやさしく枝葉が揺れる風情は何とも言えず、まるで緑の枝葉が風と遊んでいるようでありました。

      さわやかに枝ゆらす風吹いていてかわず鳴く声のどかに聞こゆ

      早苗田にかわずのどかに鳴いている静かなりけり春昼下がり

 田んぼに鳴く蛙の声が聞こえました。その鳴き声はいかにものどかです。ただでさえのんびりの春の昼下がり。しみじみとそののどかさを味わいました。

      もみじ谷歩む小径のそこかしこ木漏れ日射してただ静かなり

 もみじの小径の一角に谷になっているところがあります。その小径のそこかしこに木漏れ日が射していました。その木漏れ日を見るとなぜか静かさを思います。もとより木漏れ日は喧噪の中にはありません。木漏れ日は静かさを一層静かにしていました。

      木漏れ日に落ちた真紅の葉一枚足止めて見るその鮮やかさ

 木漏れ日の中に真っ赤な葉が一枚落ちていました。何の木の葉か、思わずハッとするほど赤い葉でした。緑と赤という補色だったからでしょうか。その鮮やかさに見入ってしまいました。それは何かを語っているように思えてなりませんでした。

      静かさを破って一声カラス鳴くこれからどこへゆくというのか


 静かさを破るカラスの鳴き声が聞こえました。その声に我に返って思ったことはもみじ谷の静かさ、のどかさをウクライナの人たちに上げたいという現実でした。自然は静かなはずです。人も自然も静かでのどかであるべきです。


ウクライナに春紅葉の平和を!


不垢不浄 №680

 不垢不浄

令和4年5月16日

 のっけからですが、花の散り方も色々ですね。先達て申し上げました桜のように咲いている時はむろん、花吹雪となって散ってからも花むしろ、花いかだと愛でられる花があります。と思えば、カンゾウのようにどうしてそんなことができるのかと思うほど見事に身をつつんで咲き終わる花もありますね。

その一方で桜とは真反対に思われてしまう花もあります。先日頂いたTさんの手紙にそれがありました。Tさんは毎年近くの寺にあるハクモクレンの花を楽しみにご覧になっているのだそうですが今年は咲くのが早かったのか、お出でになった時には池の水面を覆いつくすほどに散ってしまっていたのだそうです。

 その時、Tさんに思い浮かんだのは「無情、色即是空」という言葉だったそうです。純白で清浄な花を思っていれば当然でありましょう。茶色に変色した花の無残な姿を見てTさんは「こんな風に思いたくはないのですが、汚い!」としか思えず、同時にその様が「花の屍体のようで恐ろしく」感じられたと言います。

 Tさんは最後に「私はハクモクレンの何を見ていたのでしょう」と言われましたが、この言葉に私も改めて気づかされるものがありました。Tさんおっしゃる通り、散った花びらは花の屍体です。桜もハクモクレンも散った花びらは屍体です。花はどんなに美しく咲いても必ず散る時が来ます。それが無常。色即是空です。

 色即是空を言う般若心経に「是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。」という言葉があります。諸法空相とは一切のものは空ということであり、私流に空を無常と考えれば、一切のものは無始無終の無常です。そこに生滅はありませんし増減もありません。不垢(きれい)も不浄(汚い)もないのです。


 花が咲いてきれいと思い、散って汚いと思うのは人情です。人間の勝手な思い込みです。花は人に見せたくて咲いているのではありません。精一杯生きていることが花に見えているのです。つぼみが花と咲き花が散って実を結ぶ。それは無常です。人間にとって時に「無情」でもあるのが「無常」でありましょう。


花は苦労の風に咲け

        <人生一路>


続・すごい!タツナミソウ №679

 続・すごい!タツナミソウ

令和4年5月7日

 昨年7月のこのたよりで一輪挿ししていたタツナミソウを何の気なしに植木鉢に差したらそれが根づいたということを申し上げました。その後、そのタツナミソウが11月下旬になって花を咲かせたのでびっくりしたことをまたこのたよりで申し上げましたね。タツナミソウが冬に花を咲かせるなんてあり得ないと思ったのです。

 タツナミソウは多年草です。春に花を咲かせても冬には地上部は枯れて根だけが残り、その根が翌年春また芽を出すという植物です。ですから冬になっても地上部が枯れないということは普通はないはずです。それが枯れなかったのは植木鉢という環境がよかったのでしょうか。タツナミソウはそのまま越冬してしまったのです。

 で、春にどうなるかとみていましたら根からも茎が出て4本になり、つい先日その4本が花を咲かせました。それも立派な花です。たまげました。いくら条件がよかったとしても根づいた上に越冬して茎数を増やして花を咲かせたということに改めてタツナミソウの生命力にすごい!ご立派!としか言いようがありませんでした。

 実はこの春はもう一つびっくりさせられたことがありました。バイモです。春いち早く芽を出して花を咲かせるバイモをまた一輪挿しに飾っておいたのです。十日ほどして花が終わったので一輪挿しに入れたまま外に出しておきました。すると何ということでしょう。バイモの先端の蔓がちょうどそこにあった細い紐に絡みついているではありませんか。

 むろん一輪挿しのバイモに根はありません。水がなくなれば枯れる運命です。にも拘らずバイモはそばの紐に絡みついたのです。バイモの蔓がどんな役割をするのかは知りません。でも根を失ったバイモが紐に絡みついたということは生きようとしているということです。その必死さに思わず胸を打たれました。


 タツナミソウもバイモも必死生きようとしています。どんな状況にあっても生きようとしています。その不屈の生命力に脱帽。バイモはその後地面に植えてやりました。ひょっとしたらタツナミソウ同様根づいてくれるかも知れません。感動をくれたタツナミソウとバイモの驚異の生命力に教訓を貰いました。珍重。



 斃れて後已む

春過ぎて夏来たるらし… №678

 春過ぎて夏来たるらし…

令和4年5月5日

 今日は24節気の立夏。春極まって夏が始まるという日です。毎年この時期になると決まって思い出す歌があります。万葉集にある持統天皇の歌です。

春過ぎて夏来たるらし白栲(しろたへ)の衣ほしたり(あま)の香具山

青葉で緑一色の香具山を背にひるがえる真っ白な衣が目に浮かびます。

しかしこの歌、山の緑と真っ白な衣という色の対比で季節感を表した単なる叙景歌なのでしょうか。私はどうもそれだけではないように思われるのです。作者持統天皇が意識していたかどうかは分かりません。期せずしてかも知れませんが叙景歌以上の意味、うがちすぎと言われればそうかも知れませんが無常の思いが込められているように思うのです。

 歌の初二句は季節の移ろいを言っています。次の三四句は時の流れに伴った変化を詠っています。春が過ぎて夏になり夏になると香具山を背にひるがえる真っ白な衣が見えるというのは爽やかな初夏の景色そのものではありますが、歌全体を通して感じられるのは時の変化、無常ではないでしょうか。そう考えていて詩一篇できました。

      白雲悠々逝大空    雲はゆったり空をゆき

      青山遼々去時空    山ははるかな時をゆく

      今日立夏無別事     夏立つ今日も事もなく

      空即無常色即空    無常のすべてが移りゆく

 大空にゆったりと浮かぶ雲は悠々と流れていきます。どっしりと動くことのない山も遥かな時の流れに身を委ねています。今日は立夏。と言って何がある訳でもありません。昨日は昨日今日は今日。一年のうちの一日が過ぎてゆくばかりです。あるのは無常、そればかり。ものみなすべて瞬時も止まらず過ぎてゆきます。


 以前、色即是空、空即是色ということを考えていて、これを「諸行無常」と合わせれば三段論法で「空即無常」が導き出されると分かりました。私たちは空なる存在。そして無常なる存在です。季節が移り変わるように一瞬一刻も留まることなく変化してゆく存在です。逝く雲に変わりません。流れる水に変わりません。ただそれだけ。


死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに

 なに変わろ おれもお前も 利根川の

 船の船頭で 暮らそうよ  

             <船頭小唄>