「置かれた場所で咲きなさい」 №673

 「置かれた場所で咲きなさい」

令和4年3月17日

 3月も半ばを過ぎました。高校3年生や大学4年生は卒業式も終わって次の進学や就職に決意を新たにしていることでしょう。別れと出会いの3月。冬の寒さが残る凛とした朝の空気に改めて身の引き締まる思いをされている方もいるかも知れませんね。経験したことのない新しい世界に向かう人生節目の時。その緊張をお察しします。

 一歩を踏み出すまでの何とも言われぬ思い。その時の自分しか分からない思い。人誰しもその思いを経験していると思います。私も同じでした。大学に入った時も卒業して雑誌社に入った時もそうでした。不安と期待が入り混じったその思いを私はいまも忘れることができません。人はみんなその思いで新しい世界に入っていくのでありましょう。

 そんな若い人たち、いまかつての私と同じような気持ちでいる若い人たちに一つの言葉を紹介したいと思います。それが表題の言葉「置かれた場所で咲きなさい」です。私はこの言葉をノートルダム清心学園理事長であった渡辺和子さんが書かれた同名の本で知りました。渡辺さんはこの言葉を英語の詩で知ったと言われるのです。

 ことはこうです。渡辺さんは36歳の時ノートルダム清心女子大学の学長に任命されたのだそうです。異例の若さ、岡山という未知の土地。周囲の理解も満足に得られずに自信を失って修道院を出ようかとまで思いつめた時、一人の宣教師が短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭に「置かれた場所で咲きなさい」とあったというのです。

 その詩には上の言葉に続けて「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いではなかったと、証明することなのです」とあったそうです。この言葉で渡辺さんは自分を一変させることができたと言います。


 人はとかく自分が置かれた立場に不満を持ちがちです。学長になりたての渡辺さんが周囲に対して「くれない族」であったとおっしゃるのもそれだったのでしょう。それを一変させてくれたのが「置かれた場所で咲きなさい」だったのです。若い皆さん、どうぞこの言葉を胸にして下さい。出発進行!


  随処に主となれば

     立処みな真なり

         臨済義玄

ウクライナに平和を! №672

 ウクライナに平和を!

令和4年3月12日

 先月24日、ロシアがウクライナに侵略しました。いまこれを書いているのは36日ですが、ロシア軍はキエフなどウクライナの主要都市への攻撃をやめていません。ユニセフによれば3日の時点で子ども17人が亡くなり30人がけがをしたと言います。新聞は民間人の犠牲者が227人に上ると伝えています。ウクライナに平和をと祈らざるを得ません。

 分けてあろうことかロシア軍は4日、欧州最大級と言われるサポロジエ原発を攻撃し制圧したと言います。ロシアが意図するところは原発の核兵器化でしょう。ロシアがどんな国か、改めてその恐ろしさを思うばかり。この暴挙を決して許してはなりません。いま私たちが何をすべきかを考えたいと思います。

 まず第一に求めたいのは国際連合の組織改革です。国連安全保障理事会の対ロ非難決議は常任理事国であるロシアの拒否権行使で意図する結果が得られませんでした。5か国の常任理事国のうち一国の拒否権行使で機能不全に陥ることはあってはならないと思います。常任理事国のあり方を再検討すべきです。その以前にロシアを常任理事国から外すべきでありましょう。

 第二にはこの侵略戦争が終結した段階で戦争責任を明確にする裁判をすべきだと思います。今後二度とこのような無法な侵略戦争が起こらないようにロシアとりわけプーチン大統領の責任を追及し断罪すべきです。連邦でも属国でもない独立国に対して無法な戦争を挑むことは絶対にあってはならないのです。

 第三には原発の問題です。原発の核兵器化が現実の問題になった以上原発はやめるべきです。我が国は福島原発事故を起こしながらいまだに脱原発を打ち出していません。電力会社の中には新設を目論んでいるところさえあるのは恥ずべきことでありましょう。この際与野党揃って脱原発を決定すべきでありましょう。切に希望したいと思います。

           <アフガニスタン人道危機救援寄付御礼>


 ご報告が遅くなりまして申し訳ありません。先達て皆さまにお願いしましたアフガニスタン人道危機救援寄付金全部で30232円になりました。寺分と合わせて96322円を216日、日赤宛送付しました。皆さまのお心に感謝しご報告申し上げます。


強権をほしいままにした独裁者も

最後には断罪されてきたのが歴史の教訓である

         22,3,5毎日新聞<余録>


人間の正体 №671

 人間の正体

令和4年3月11日

 当観音寺の2月の観音さまの会ではいつもの観音講に加えて涅槃会(ねはんえ)をしています。涅槃会というのはお釈迦さまが亡くなった日(215日)にその遺徳を偲ぶ法会ですね。この日はお釈迦さまの最後の説法と言われる仏遺(ぶつゆい)(きょう)(ぎょう)を読むことになっていますので観音寺でも涅槃会にはその遺教経(仏垂般(ぶっしはつ)涅槃(ねはん)略説(りゃくせつ)教誡(きょうかい)(きょう))を読むことをしています。

 その遺教は長文ですので当日は前半か後半のどちらかを読むことにしています。今年は一般に「八大人覚」と呼ばれている後半を皆さんと一緒に読みました。その遺教後半部を読んでいて改めて思うことがあったのです。それはお釈迦さまは人間の正体は霊魂、魂だと思っておられたのだろうということです。

 お釈迦さまがまさに滅度されようとする時お釈迦さまはこう言われたというのです。「我今滅を得ること悪病を除くが如し、此れは是、まさに捨つべき罪悪の物、仮に(なづ)けて身と為す、老病生死の大海に沒在す、何ぞ智者有って之を除滅することを得ること、怨賊を殺すが如く而も歓喜(かんぎ)せざらんや」と。

 お釈迦さまは私たちの身体を「まさに捨てるべき罪悪の物」と言います。そして死(滅度)によってこの体を消滅させることができるのは怨みのある敵を滅ぼすことができたように歓喜(かんぎ)(宗教的なよろこび)に値することではないかとおっしゃるのです。体を捨てること、死ぬことが歓喜に値するということに思わず「えっ」ではありませんか。



 私はお釈迦さまのこの言葉の裏にあるのは「人間の正体は霊魂」ということだと思います。人は体を持たなければこの世での活動は出来ません。人間として生きる時になくてはならないのが体です。しかし、その一方で体は諸悪を生み出し四苦八苦の元になります。お釈迦さまはその諸悪の根源たる体を離れて魂に還ることこそ喜びだとされたのでありましょう。

 以前申し上げましたね。私たちが目にしているセミやキノコはその生物の本来の姿ではありません。セミの本体は地中の昆虫です。キノコは大部分が担子菌であり、その子実体(生殖体)がキノコなのです。それと同じように私たち人間もその本体は霊魂であるというのが真実ではないでしょうか。


セミもキノコも実は「花」なんだよ

「親ガチャ」 №670

 「親ガチャ」

令和4年3月3日

 前号№669(赤ちゃんって?)を考えながら思い出した言葉がありました。それが表題の「親ガチャ」です。皆さんはこの言葉をご存知でしょうか。私はつい最近まで知りませんでした。でもこの言葉は昨年の流行語大賞にノミネートされたのだそうです。流行語に関心がないとは言え、改めて若者言葉に遠い身を感じました。

 いま若者言葉と申し上げましたが、この言葉は若者の発想らしく、その意味は自販機のガチャガチャで出てくるおもちゃのように子どもは親を選べない、だそうです。最近、生まれた環境や親で自分の人生が決まってしまうという考えに共鳴する若者が多いと言いますが、流行語大賞にノミネートされたということがそれを示していましょう。

 しかし、結論的に申し上げますと私はこの「親ガチャ」の考えには全く反対です。というより、子どもは「親を選べない」のではなく「親を選んでくる」というのが真実だと思います。これはルドルフ・シュタイナーという人智学者が言っていることですが、子どもたちは生まれてくる時に親を選んでくるというのです。

シュタイナーはこう言っています。「死者たちはそれまで体験してきたことから新しい地上生活の霊的原像を作り上げます。死者たちは自分に身近な成分に惹かれますので、遺伝的な特徴とこの原像との間に親和力が見出せるような両親に惹きつけられるのです。そのようにして死者たちはふたたびこの地上で肉体を担った存在として生きるのです」と。

つまり、私たちは誕生に当って自分の人生の目的にかなった親を選んで生まれてきているのです。親ガチャなんてとんでもありません。たとえ家が貧しくしたいことも満足にできない状態であってもそれはその苦労を自らが望んで生まれてきたということです。その試練の人生を自らが設定してきたということなのです。


 前号「赤ちゃんって?」で考えた親のしていること(仕事)を継ぐというのはその意味なのです。親がしている仕事を自分の人生の目的とする原像があって「継ぐ」ということになるのでありましょう。若い人たちに心から申し上げたいと思います。あなたのいまはあなた自身が選んできたのです。どうぞ頑張って下さい。



置かれた場所で咲きなさい   

         渡辺和子