絶対信頼 №646

 絶対信頼

 令和3年8月18日

  先日、若いご夫妻が6ヵ月になったばかりの赤ちゃんを抱いてお詣りに来てくれました。この時節、赤ちゃんと一緒にお詣り下さるのは久しぶりでしたが、何よりうれしかったのはその赤ちゃんの笑顔でした。こちらの顔がほころぶそのあどけない笑顔には感動させられました。神聖なものを感じさせる感動がありました。

 その笑顔が意味するものは信頼。両親初め周囲の人に対する絶対信頼です。一片の疑いもなく周囲を信じ切っている笑顔に私は一瞬粛然とするほどの感銘を受けました。そしてその赤ちゃんの健やかな成長を祈るばかりでした。人を信じ切ったものだけが表わす笑顔にはそれを見るものを心清らかにする力があると思いました。

 人は未熟児で生まれてくると言います。言われてみれば確かにそうですね。ウマウシヤギなどは生まれて1時間もしないうちに立ち上がってお母さんの乳を飲むことができます。それに引き換えヒトはどうでしょう。生まれたばかりでは何一つできません。おっぱいを呑むことさえも出来ません。放っておかれたら三日と持たずでありましょう。   

 赤ちゃんの絶対信頼はどこに由来しているのでしょうか。両親やそれに代わる人の庇護がなければ生存することができないということが絶対信頼を生み出しているのでしょうか。私には分かりません。しかし、どこに由来していても幼い子が持つ絶対信頼ほど素晴らしい心情はないと思われてなりません。

 しかし、悲しいことに私たちは成長とともにこの絶対信頼を失ってしまうと思えてなりません。幼い時は誰しもが持っていたはずの絶対信頼を失くしてしまうのはどうしてでしょうか。人間社会は信頼だけでは成り立たないということでしょうか。意識することもなく絶対信頼を失った我が身を振り返って残念しかありません。

 パスカルやカントが唱えた「心情倫理」という説があります。道徳的判断の対象を行為者の心情や意図におき、よいこころばえをあらゆる善の標準とする考えですが、絶対信頼もそのよいこころばえの一つでしょうか。いずれにしても私たちが日常の中で信頼を意識し信頼の生活に心掛けたいと思いました。

 

信じられぬと 嘆くよりも

人を信じて 傷つく方がいい

         <贈る言葉>

 

共感は応援 №645

 共感は応援

 令和3年8月17日

 私事で恐縮ですが私は時折、新聞の「声」欄に投稿をします。その理由はその時の問題に対する自分の考えが一つの意見として成り立つかを知りたいからです。投稿が取り上げられればその投稿が一つの意見として認められたと思うのです。自分の意見を知って貰いたいというより自分の考えの妥当性を知りたいという思いの投稿です。

 この私の投稿を必ず見つけて読んで下さる3人の方がお出でですが、そのうちのお一人は読んですぐに「思っていても書けないことを書いて下さいました。元気が出ました」と電話を下さるのです。私はその方の「元気が出ました」という言葉にいつも自分自身が元気を頂く思いでいます。その方の言葉に私自身が励まされているのです。

 考えれば、その方がおっしゃって下さる「元気が出ました」という言葉は、私の投稿に対して同意し共感して下さったということです。共感は思いを一つにするということです。私の意見に対して私も同じ考えですと表明して下さることは、それがそのまま意見に対する激励であり応援であると言えるのではないでしょうか。

 3年前でしたか、冬季オリンピック平昌大会のカーリングで3位になったLS北見の選手が試合中互いに発した「そだね~」が時の言葉になりましたね。あの「そだね~」も同意、共感そのもののでした。緊張の場面でお互いに「そだね~」と共感の声を出しあうことが励ましと自信になったことは間違いありません。

 と、ここで改めて思い出すことがありました。養護学校教員時代、取り分け注意していたことは生徒のお母さんの言葉を否定しないということでした、お母さんが言うことがたとえ間違っていてもとりあえずはそれを受容することでした。まずは共感することを心掛けました。関係づくりの第一歩が受容・共感だったのです。

 思います。この共感は私たちの暮らし全般に大切なことではないでしょうか。家庭であり職場であれ、まずは同意そして共感。それを第一にすればそこからさらによい展開が生まれるに違いないと思います。否定は反発や不満しか生みません。どうぞ皆さま、毎日の生活の中で相手への共感を多発して下さい。

 

  <それは面白い。

きみ一つやってみたまえ>

万物流転 №644

 万物流転

令和3年8月10日 

 よ~し来い 負けるもんかと 炎天の 日差しの中に 傲然と立つ

 いやはや今年も何という暑い夏でしょう。外に出れば灼けるよう。部屋の中でもうだるよう。「〽もうどうにもたまらない~」ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。上の一首は暑中見舞い状にしたためた拙詠です。

 でも、いくら強がって「傲然と」立ってみても暑いことは暑い。下手すれば“年寄りの汗水”で熱中症になりかねません。私のような年寄りにとってはコロナより怖いのが熱中症ではないでしょうか。気合いは大切ですが気合いだけではいかないのが暑さ寒さです。どうぞ皆さまもお大切にお過ごし下さいますよう。

      炎々酷暑覆辺城     何と言うべきこの暑さ  

      草木悉皆寂無声     すべてが黙すその中に

      其中一陣涼風至     思いもよらぬ秋の風

      黙示万物流転営     移りゆくのがこの世だね

 上の詩はこの夏の暑さを思っての一編です。辺城というのは片田舎という意味。町中のものが暑さに打ちひしがれ静まり返って声を出すものもありません。でもその暑さの中に一陣の涼風。一瞬の秋を感じさせました。立秋は夏の頂点です。立秋になっても暑さは続きますがその暑さの中に秋の涼しさが忍び込むのです。

 古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスに「万物流転(パンタレイ)」という言葉があります。

ヘラクレイトスは「闇の人」とあだ名されただけあってその箴言は晦渋を極めると言われますが、この「万物流転」は言葉通り「すべてのものは流動変化して極まりない」と素直に解釈してよいものでありましょう。

 この万物流転を私たちに馴染みのある言葉で言いかえれば「諸行無常」がそれだと思います。

万物は諸行、流転は無常です。お釈迦さまもヘラクレイトスも生没年は未詳ですが言い伝えではヘラクレイトスが若干先かも知れません。いずれにしてもすべてのものは変化し続けるというは真実に違いありません。

  音もなく香もなく常に天地は

書かざる経を繰りかへしつつ

         二宮尊徳