放脱観 №68

平成23年1月2日

放脱観


 昨年流行った言葉に「断捨離」というのがありましたね。ものの整理、片づけの時の心構えということでしたが、「ダンシャリ」という音も漢字一つひとつもかなり冷徹な感じがしますね。ま、片づけごとはそれ位の気持ちでしなければ右から左への移動で終わってしまうのでしょう。そんなことを考えているうち信仰の心構えを同じように漢字三字で表したら何だろうと思ったのが表題の「放脱観」なのです。

 まず「放」。これは手放しです。後生大事としっかり掴んでいた両手を思い切ってパッと開く。放つことです。私たちは平生、物でも心でもしっかり抱え込んでいますね。特に思いがそうかも知れません。自分が正しいと思ったらそこから離れるのは容易ではありません。しかし、私たちの考えなんて殆ど煩悩妄想です。それを一転するのがこの「放」なのです。道元禅師は「はなてばてにみてり」と言われました。何と素敵な言葉でしょうか。

 次は「脱」。これは解脱(げだつ)の脱です。解脱という言葉は観音経に何度も出てきますね。あの解脱です。観音経の解脱はいずれも特別な境地を言っているのではありません。窮地を脱け出ることを言っているのです。英語のreleaseです。解放を言っているのです。私たちはいつも物心両面の捕らわれに生きています。この捕らわれから解放されること、脱け出ること。難しいことではありますが、それが大切なのです。

 三番目は「観」。これは観自在の観です。観音様が自在に正しく見ることが出来るのは素直に観るからです。予断、憶測、我見、偏見なくものごとを観るからです。私たちは観たり聴いたりする時どうしても自分の勝手な先入観や狭い料簡に捕らわれがちです。これも後生大事の捕らわれかも知れません。八正道に「正見」がありますが、捕らわれのない素直な目で観ることが信仰の捷径(しょうけい)なのです。「放脱観」。言うは易く行うは難しですが、一歩ずつの思いで行きませう。
  



    弱きもの人間 欲ふかきものにんげん
    偽り多いものにんげん そして人間のわたし 
              ~相田みつを~