祈りの人になる №617

 祈りの人になる

令和3年1月28日

 令和3年もはや2月。コロナは相変わらず収束の兆しが見えません。17日に首都圏の一都三県に、そして113日には大阪京都福岡など七府県に再度の緊急事態宣言が出されました。宣言からすでに3週間が過ぎましたが依然として高い水準の感染者が出ている状況では宣言の延長も必至でありましょう。

 このたよりでも何回も申し上げました。人間はコロナウイルスを絶滅させることはできません。となればコロナに罹らないように祈るしかありません。人間の手に負えない存在に対しては祈るしかないのです。自然の脅威に対してはその害を受けないように祈るしかありません。往古来、人間はそうするより仕方がありませんでした。

 昨年突然のようにアマビエが現れましたね。アマビエなる妖怪が奇怪であればあるほどその奇怪な力を頼んでコロナに罹らないようにと祈った方もお出でと思います。俗に「困った時の神頼み」と言いますがまさにそれであったかと思います。それまで信心のかけらさえなかった人も我が身と家族のことを思ってアマビエ様々であったかも知れません。

 私はそれでもいいと思います。災難を避けようとして必死に祈るのは当然のこと、当たり前のことです。しかし、忘れてはいけないこと、肝心なことは必死に祈ったその気持ちを忘れないということです。その祈りを第一歩として祈りを続けること、そしてそれによって真実の「祈り人」になることだと思います。

 因幡の源左という江戸末期に生まれた妙好人がいました。この源左さん、ある時一人の男が「全くわしゃ偽同行だいなぁ」というのを聴いて「偽になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのぅ」と言ったそうです。まさにそう。偽信心でもいい。信心が本物になっていないことを自覚できたらもっといいということではないでしょうか。

 毎年のように申し上げていることですが、皆さんがして下さっているこの星祭は祈りの第一歩でもあり祈りを続けるよすがでもあります。どうぞ皆さん今年も「祈り人」の一年をお過ごし下さい。祈りによって神仏を敬い自然への畏敬の念を新たにして下さい。人生は祈り、なのです。



皆さん、今年も星祭有難う。

 


 

「共存」は「棲み合い」 №616

 「共存」は「棲み合い」 

令和3年1月17日

(あら)たしき年の初めの初春の今日降る雪のいや()吉事(よごと)  大伴家持

 何年か前の年頭にも上の歌を紹介したことがありましたね。この歌は家持さんが因幡の国に赴任していた天平宝字三年(759年)、正月の宴で詠んだ歌です。万葉集20巻最後の歌になったこの歌には降る雪によいことを重ね願った家持さんの心情がしのばれます。

      禍福混交迎新年   未だコロナの新年迎え

      祈只管共存完全   只々祈るすべての共存

      疫病消除娑婆訶   コロナ収まり万歳の

      願一心希望一年   希望の一年来るように

 上は今日初観音の法語です。ご紹介した家持さんの歌と同じように世界の人々が共存してくらすことができますように、そしてコロナが収束してくれますようにという思いで作りました。今年はこの願いが叶うことを祈るばかり。皆さんも人間の生存に不都合なこと、生存を脅かすことが起きませんようにと願っておいでと思います。

 しかし、です。前号でも皆さんに「人類共存」を申し上げましたが、人類だけが、あるいは一民族一生物種だけが一方的に利益を得るというのでは共存にはなりませんね。私が敢えて「共存」と申し上げたのはそのことを思ったからです。共存するためには互いの違いを知ってそれを尊重することがなければなりません。

 昨年のちょうど今頃、このたよりで「棲み合いの論理」ということを申し上げました。チョウの中には棲み分けではなく棲み合いをする種がいるという話でした。この発見をされた中井 衛さんによれば、棲み合いによって互いの種の識別能を保持することにこそ生物多様性の原理が秘められていることでした。

 人間とコロナとの共存、人類同士の共存ということを考えていて私は改めて中井さんが発見されたチョウの棲み合いのことを思い出しました。共存とは棲み合いに他なりません。互いにその違いをはっきり認識しかつその違いを保持し続けることです。私たち人類の平和は互いの違いを知る、認めることに始まるのでしょう。

 


「棲み合い」こそ生物本来の姿

           中井 衛