絶叫の牛 №146

平成24年6月25日

絶叫の牛



 梅雨空に 去年(こぞ)の思ひの やるせなく 乱れ咲きにし 垣のつるバラ

 福島の原発事故でこれまで私たちが知らなかったこと、 というより敢えて隠されていたことが徐々に明らかになっていますが、 その一つに原発避難地域に残された悲惨な牛のことがあります。雑誌「大法輪」7月号にその報告がありますが、そのあまりのむごさに言い知れぬ哀れさを覚えてなりませんでした。

 記事によれば震災前、原発から20キロ圏内で飼育されていた牛約3500頭のうち、半数が餓死し、800頭余りが殺処分されたということです。もちろん畜産家が望んで餓死させたのではありません。警戒区域として立ち入り禁止になって牛舎に行くことが許されなかったのです。その中には柵がロックされて身動きも出来ないまま悶え死んだ牛が60頭もいたといいます。

 殺処分の時には母牛が殺される直前まで母牛の乳首を無心にしゃぶる子牛がいたといいます。殺すための筋弛緩剤が命中せず苦しみのうめき声を上げて死んでいった牛もいたといいます。 殺される牛たちはおびき寄せの塩に向かって殺処分の誘導路をおとなしく進んだといいますが、これが虐殺でなくて何でありましょう。これは私たちがしたことなのです。

 生き残った牛の殺処分にいまなお同意していない畜産家もいます。 そのうちの一人、Yさんは「牛は最後は肉になって人の口に入る。そのように役割を果たして生を終える。だから人は牛の命を頂いていることに感謝しなければならない。しかし、餌も水も与えずに殺し、殺処分として虐殺することとは根本的に死の意味が違うだろう」と言います。

 私たちはこのYさんの言葉を深く思うべきでありましょう。 事故から一年、私が19歳の時の旅でお世話になった南相馬市の岩屋寺で犠牲動物の供養が営まれたそうです。 その岩屋寺の星見全英師によれば、往時、寺の周辺のT字路には「如是畜生発菩提心」「草木国土悉皆成仏」と記した卒塔婆を祭って動物の死を弔ったということです。この度の畜産家の悲しみは私たちの悲しみに他なりません。

<被災地ボランティア寄付金御礼>
 地震被災地ボランティア寄付金ご協力有難うございました。 全部で46575円になりました。県宗務所に届けました。皆さまの温かいお心に感謝してご報告申し上げます。

思産子(うみなしぐゎ) №145

平成24年6月17日

思産子(うみなしぐゎ)

前号№144(ぞうさん)で僧侶が通過しなければならない伝法という儀式に幼児の仕種をまねた嬰児行(ようにぎょう)があることを書きましたが、涅槃経にはこれが菩薩が修行すべき五行の一つとしてあるのだそうです。 この涅槃経に言う嬰児行は二説あって、その一つは衆生に合わせて実ではない教えを説くという方便行だと言います。

 そしてもう一つは、無分別・不二という実相を体現している嬰児を習う行だということです。嬰児を表現する時「あどけない」という言葉を使いますが、あどけないとは邪心がなく可愛いという意味です。行としてはどのようにするのか知りませんが、いずれにしても嬰児の無邪気さに理想の姿をみていることは明らかでしょう。

 ずっと以前「童子神」という言葉を聴いた記憶があって、それを調べているうち「童(わらび)神(がみ)」という歌があることを知りました。因みに歌詞(古謝美佐子作詞)一番は、「天からの恵み 受けてこの地球(ほし)に 生まれたる我が子 祈り込め育て イラヨーヘイ イラヨーホイ イラヨー愛し 思産子(うみなしぐゎ) 泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー 太陽(てぃだ)の光受けて ゆいりよーや ヘイヨー ヘイヨー 健やかに育て」です。

 この歌は2002年のNHKみんなの歌だそうですからお聴きになった方もおいでと思いますが、童神という曲名の通り、この歌は幼な子に神を見た歌でしょう。 歌詞のなかの「思産子」とは「私が生んだ子」という意味だそうですが、この言葉には我が子へのいとしさと同時に天から授かった尊い命、祈りを持って育てる神のような存在だという母の喜びと畏敬があります。

 いまこの国は子どもたちが安心して健やかに育つことが大変難しい国になってしまいました。

 政治も社会も環境も子どもたちにとって決してよい状況にあるとは言えません。しかし、幼な子が神さま仏さまに等しい存在であることは変わりありません。幼な子の姿に神仏を見出し、皆さまと一緒に自分の中の神仏を生きることに努めたいと思います。嬰児行とは己の中の本性、仏性を生きることなのでしょう。

幼い子供は 仏の世界にいるから 人間の常識を相手にしない 分別豊かな人間を相手にしない ~相田みつを~

ぞうさん №144

平成24年6月10日

ぞうさん

先達て、朝のお勤めの後のことです。私が「師匠の寺では花祭りの時、花御堂をぞうさんに乗せるんですよね」と言いましたら、Kさんがけげんな面持ちで「それじゃ手が届かないんじゃないですか」と言われるのです。それを聴いた人達、一瞬ののち大爆笑になりました。Kさんが本物のゾウをイメージしたと分かったからです。

 もちろん、私も「張り子ですよ。張り子のぞうさん」と言いながら笑ってしまいました。しかし、同時に「いいなぁ」と思いました。ぞうさんが花御堂を背中に乗せてゆったりと歩いていく姿は思うだに微笑ましいではありませんか。その発想は明らかに子どもの発想でしょう。私はその景色を思い浮かべながら子どもの発想をしたKさんもいいなぁと思ったのです。

 私たちはみんな子どもの時は純真で素直な気持ちを持っていたはずですが、やがてその純真さを失い、いつしかそれとは反対の自分になってしまっています。しかし、子どもの純真さほど尊いものはありません。 無邪気に全幅の信頼で親を慕う姿はあどけないという以上に私たちの心に迫る尊さがあります。

 人はそこに人間の理想を思ってきたのでありましょう。そう言えば、僧侶が通過すべき伝法という儀式には「嬰児(ように)行」と言われるものがあります。弟子が幼児そのまま膝立ち歩きして師匠のもとに進むと師匠は弟子の頭を撫でて伝法の言葉を発するのです。 弟子はまさに親を慕う子供の姿、仏に帰依する素直な心を象徴しているのでしょう。

 「子どもらと 手まりつきつつ この里に 遊ぶ春日は 暮れずともよし」と詠った良寛さんは子どもたちと同化することが出来たからこそ手まり遊びが楽しかったのだと思います。 それは良寛さんが子ども心を持ち続けていたからこそです。 良寛さんはその心の中に子ども心を失わずに持っておられたのです。

 いま私は私も持っていたはずの純真で素直な心から遠く離れたところにあって子どもの無心に憧憬を覚えてなりません。いつかまたそこに帰りたい、と。

子どもはなおもひとりの天使 いかなる神をも信ぜぬままに
~谷川俊太郎~


延命治療 №143

平成24年6月1日

延命治療



 先日(5月17日)、「人生の最期どう迎える・岐路に立つ延命治療」という番組(NHKクローズアップ現代)がありました。いま、口から食べ物を取れなくなった人の延命治療として胃に直接水分や栄養を流入させる「胃ろう(瘻)」という延命治療が増えていると言われますが、これによって生じる問題を考える番組でした。

 番組では二つの例が紹介されていました。一例は孫の男性が介護に当たっているという93歳の女性でした。女性はこの治療を7年間受けていますが、認知症のために4年前からは孫の認識も出来ないと言います。孫にとって一番の悩みは「彼女の魂がどこにあるのか」だと言います。その言葉を覆っているのは空しさのように思えました。

 もう一例はすでに12年間この治療を続けている男性です。男性の奥さんはそれ以前6年間、24時間介護をしてきたそうですが、この胃ろうになってから今度は入院費のために朝7時から働いているのだそうです。寝た切りの男性の手足は硬直してしまい、それを見るにつけ奥さんは治療が夫を苦しめているのではないかと悩んで「心が崩れた」と言います。

 この二つの例が提起しているのは、延命治療を受けている本人と家族の心の問題、そしてもう一つは治療費の問題です。わが国で胃ろうを受けている人は40万人に及ぶと言いますが、アンケートでは胃ろうに対して「分からない」「つけなければよかった」が半数におよび、治療をやめるかどうかという問いにはやはり半数が「やめる」と答えていると言います。

 番組が提起したのは、患者にとって終末期の最善の医療とは何かということでしたが、それは裏返して言えば、死とは何か、私たちはどのように死を迎えればよいのか、ということに帰着するのではないでしょうか。

 アンケートはどうであれ、私は胃ろうを否定する気はありませんが、肉体の生存はあっても生活のない生存が最善の医療であるかどうかには疑問を拭い切れません。 死が各人各様のものであると同様、延命治療もまた各人のものであるのでしょうが、考えずにすむ問題でもありませんね。

死を避けるのではなく、うまく死ぬことを考えながら最期を送ることが大事です.
『あなたは笑って大往生できますか』