コロナ余聞 №592

 コロナ余聞

令和2年6月18日 

 神奈川県にお出での畏友K先生から興味深いお話を伺いました。いま世界はコロナウイルスの蔓延で大変な状況になっていますが、K先生の話はこのコロナ騒ぎは実は歴史的には何度も繰り返されてきたということを私たちが理解するために恰好の話ではないかと思いますのでご紹介させて頂こうと存じます。

 話は二つあります。その一つは中国の晋王朝の時の話です。今から1700年も前、晋王朝の永和年間(AD345356)に疫病が流行ったのだそうですが、その当時の決まりでは「家臣の家で3人以上の病人が出た時は家臣自身に症状がなくても100日間朝廷への出仕を禁じた」のだそうです。しかもその措置は以前からの制度としてあったというのです。

 疫病流行の時、家族に3人以上病人が出たら本人は元気でも出仕をさせないという制度が永和年間以前に出来ていたということは疫病流行がそれ以前に繰り返し起きていたということでしょう。そしてその蔓延を防ぐ手段が感染者を広げないようにすることだったとすればその措置はコロナの今と全く同じではありませんか。

 しかし実はこの話、彪之という朝臣の話になっていて、彪之が上の決まり通りにしたら朝廷は空っぽになってしまうと反対したので朝廷はその彪之の意見に従ったというのです。今からすれば正反対のことをしたことになりますが、この時の疫病蔓延がどうなったかについては残念ながら記述がありません。

 もう一つは江戸から昭和にかけての過去帳で子どもの死亡年齢を調べた結果です。それによると、幼児死亡率は25,640%だったそうですが、感染症による幼児死亡率は10%以下の今から見ればこの数字は高いというべきでありましょう。さらに注目すべきはその死因です。Kさんは赤痢疫痢という伝染病が圧倒的だったと推測されるというのです。

 いまでこそ赤痢疫痢は話題にならなくなりましたが私の子どもの頃はその赤痢疫痢で死ぬ子どもが珍しくありませんでした。以上、今回K先生から伝えられた二つのことを考えると、私たち人類はその昔から伝染病の脅威に晒され続けており、その脅威は今後も変わらずに存在するということでありましょう。や~れやれ。

 

歴史は繰り返す。

そしてウイルスも繰り返す。

無 念 №591

 無 念

令和2年6月17日 

 今月5日午後、横田 滋さんが亡くなりました。拉致被害者の救出に半生、全力を尽くして来られましたが娘めぐみさんと再会することは叶いませんでした。めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから42年、その救出に必死の人生を過ごされてきたことを思うと願いが叶わなかったことにただ無念の思いを禁じ得ません。

 横田めぐみさんが拉致されたのは1977年、めぐみさん13歳、中学1年の11月でした。その日、めぐみさんはバトミントン部の練習を終えて家に帰る途中、新潟市内で行方不明になったのです。めぐみさんが北朝鮮に拉致されたことは97年に韓国に亡命した元工作員がめぐみさんの拉致を証言したことで判明しました。

 この年、滋さんは早紀江さんとともに「拉致被害者家族連絡会」を設立してその代表となり、以来一貫して国や官庁などに真相の究明と被害者の救出を訴え続け、拉致が犯罪であることを批判してきました。しかし、めぐみさんとの再会は遂に叶えられませんでした。必死の努力が報われなかったことに無念しかありません。

 滋さんが訴え続けた通りめぐみさんは北朝鮮の犯罪行為で拉致されたのです。無念はそこにあります。北朝鮮という国が関わったことならば日朝両国の話し合いで解決が可能なはずです。北朝鮮という国が一筋縄でいく国でないことは無論です。しかし、両国が話し合いを重ねることができたら解決に近づくことは出来たはずです。

 安倍政権はその発足時から拉致問題を「政権の最重要課題」とし、「この内閣で解決する決意で取り組む」と言明しましたが、7年経った今なおその糸口さえ見えません。与党内には「安倍政権が敵視政策をとっていると見ている間は状況の改善はしない」という厳しい見方が少なくないと聞くと絶望的になるのは家族会の皆さまでありましょう。滋さんが亡くなる直前、早紀江さんが「お父さんは天国に行ける。私が行くまで待っていてね」と大声で呼びかけると滋さんは右目を少し開けて涙を流したようだったと言います。その切なさに涙の思いがしてなりません。拉致問題が解決し家族会の人たちが喜びに沸く日が来ることを願って止みません。

滋さんはめぐみさんからプレゼントされたくしを

いつも胸ポケットに忍ばせていたそうです。 

瞑目合掌。