この一年 №759

 この一年

令和5年12月25日

令和5年ももうすぐおしまい。皆さま今年はどんな年でしたか。うれしいこと悲しいこと様々なことのあった一年ではなかったかと思います。私も同じです。でも考えたら私にとってはうれしいことや楽しいことより痛恨極まりないこと、いまなお怒りを抑えきれない悔しいことの方が多かったように思います。

 まず痛恨極まりないことの第一はイスラエルとハマスの戦争です。この2か月余りの戦闘でガザでは15000人以上もの死者が出ていますが、そのうちの半数近くは女性と子どもだと言います。罪のない子どもが命を奪われ、また親を失った子どもが悲嘆に絶叫している姿を見ると胸の痛みを覚えてなりません。

 たより前号でも申し上げましたが、人類はなぜ共存ができないのでしょうか。イスラエルとパレスチナは共存しない限り戦闘は終わりません。日本はどうしてこれを強く言わないのか。アメリカの後ろでイスラエルをかばっていては何の解決にもなりません。日本が独自の平和外交ができないことに残念を覚えてなりません。

 そんな日本の岸田内閣。支持率は20%台にまで低落していますが、国民が望む政治をしていないのですから当然でありましょう。申し上げた平和外交どころか核兵器禁止条約会議にはオブザーバー参加もしていません。その一方で国民の生活困窮化をよそに軍事費増強や原発回帰に躍起になっているのを見ると気は確かか、と言いたくなります。

  怒りに任せて言い過ぎましたでしょうか。寺のこの一年の反省もしたいと思います。正直のところ、恥ずかしながら寺は満足なことができませんでした。この一年はこの観音寺が住職そっちのけでみんながわいわいがやがややってくれる寺になってくれることを意識しましたが十分ではありませんでした。


 反面、寺は皆さまの援助には助けられました。いつものお花替えの方々が庭掃除や草取りはじめトイレや階段掃除、観音さまの会の時の調理やお接待などをして下さりそのご援助がなければ寺の運営は成り立たなかったと申し上げて過言ではありません。私の一年は感謝の一言に尽きます。厚く御礼申し上げます。

 守られている ありがたさよ

 生かされている うれしさよ

 朝に夕に 手を合わせよう

 感謝のまことを ささげよう

       
         <坂村真民>

いろとりどり №758

いろとりどり

 令和5年12月16日

いま放送されているNHKの「みんなのうた」に「いろとりどり」という歌があります。幾つかのバージョンがあるようですが、そのうちの一つ「ツバメ」という歌に心惹かれるものがありました。多分皆さんもお聴きになっているだろうと思います。ちょっと長い歌詞ですがその1番をご紹介しましょう。

 「きらめくみなものうえを むちゅうでかぜきりかける つばさをはためかせて あのまちへいこう うみをこえて ぼくはそう ちいさなツバメ たどりついた まちでふれた たのしそうな ひとのこえ かなしみにくれる なかまのこえ みんなそれぞれ ちがうくらしのかたち まもりたくて きづかないうちに きずつけあって しまうのはなぜ おなじそらのしたで ぼくらは いろとりどりのいのちと このばしょで ともにいきている それぞれ ひともくさきも はなもとりも かたよせあいながら ぼくらはもとめるものも えがいてるみらいも ちがうけれど てとてをとりあえたなら きっとわらいあえるひがくるから ぼくにはいま なにができるかな」 

 この歌詞を読むと、まさにこの歌はいまの世界今の私たちを歌っているではありませんか。世界の人はそれぞれ違う暮らしをしていていい筈なのにそれを忘れて傷つけあってしまっています。人も草木も花も鳥もみんなそれぞれ求めるものは違っても肩寄せ合って生きるべきなのにそれができていません。

 この歌の根底にあるのは「共存」ですよね。求めるものも描いている未来も違うけれど、その違いを認め合って存在するのが共存ですよね。まして人間、民族宗教言語文化習慣が異なるのであればその違いは違いとして容認し、そこに足を踏み込まないというのが共存の基本ではないでしょうか。


 ロシアのウクライナ侵攻がいまだに続いている今、新たにイスラエルとハマスが戦争状態になって多くの罪のない人々が命を奪われています。犠牲者の多くが子どもや女性だということに胸の痛みを覚えてなりません。世界の人々が「いろとりどり」の生活ができるように私たちはいま何ができるでしょうか。



鈴と、小鳥と、 それから私、

みんなちがって、みんないい。

         金子みすゞ


また「あぶらんけんそわか」 №757

また「あぶらんけんそわか」

 令和5年12月12日

 もう4,5年前のことですが、このたよりで「あぶらんけんそわか」というお話を申し上げました。神奈川にお住いのEさんは、子どもの頃、お母さんが新しい靴を下ろす時に「あぶらんけんそわか」と唱えながら靴底をやかんの胴に交互に当ててケガなどしないように祈ってくれたというお話でした。

 Eさんはその後結婚してからもお母さんがしていたように「あぶらんけんそわか」のおまじないをして、ご主人から「何してるの」と笑われたそうですが、幼少時の体験はそれほど根強く心に残っているということでありましょう。私もまた未だに新しい履物を下ろす時は必ず玄関を一度出てまた入るという母の教えを守っています。

 実は今日の「あぶらんけんそわか」は上のこととはちょっと異なりますが、小さい頃に母に聞いたことで未だに実践していることがあるのです。油料理の鍋やフライパンを洗う前に先ずその底を冷たい水で流すのです。そのことによって油がよく落ちるかどうかは分かりませんがともあれそのことを続けているのです。

 上のことはある日、母が「油鍋は洗う前に底を水で流すとよく落ちるね~」と言ったことによっています。母がそのことを何で知ったのかは知りません。新聞かラジオで知ったのかも知れませんが、ともあれその時の自分にはそのことが印象深かったことは間違いありません。それで未だに洗う前に水かけをしているのです。

 Eさんの「あぶらんけんそわか」も私の「靴を履いて玄関を出てまた入る」もその底にあるのは祈りです。その靴を履いて出かけて交通事故や悪いことに出逢わないようにという素朴な祈りがあってこそでありましょう。小さい時にその祈りを自然のうちに母に学ぶという有難さがあると思います。


 油鍋の底に先ず水を流すというのは祈りではありません。しかし、小さい時の体験を今なお継続しているというのは幼少時の体験が人間にとって如何に大きな意味を持っているかということであり、それが母親に教えられたものであればその人の母はその人の胸にずっと生き続けているということでありましょう。


幼少時、何を教えられ何を学ぶか。

そのことがその人の一生を貫く


ノラ猫考 №756

 ノラ猫考

令和5年12月8日

先月初めの季節外れの夏日数日から一ヵ月、朝晩の冷え込みはやはり冬に相応しくなってきましたね。寄る年波か、私は年々寒さに弱くなっているように思いますが皆さまはいかがお過ごしでしょうか。寒さが厳しくなってくるこの時期になると気になることがあります。ネコ。そう、ノラ猫のことなんです。

 以前にもお話ししましたが、この観音寺境内には常時数匹のノラ猫が徘徊しています。そのうちの一匹に時々エサをやるようになってもう数年になると思いますが、今年になってそのノラが本堂の縁の下に“常駐”しているらしいことが分かりました。。朝、エサやりの時間にその気配を感じて縁の下から飛び出してくるのです。

 実は2,3 年前の冬にそのノラが数日姿を見せないことがあって凍死してしまったのではないかと心配したことがありました。その時は別の場所にいたようで無事に戻ってきましたが、これから寒くなる一方ですから本堂の縁の下で冬の寒さを越せるだろうかと心配になるのです。ノラ猫も大変ですよね。

 思えば可哀相なノラ猫ですが、私はノラ猫の本当の悲哀は人とのつながりを持っていないことだと思います。いや人とだけではありません。ノラ猫同士もつながりを持っているようには思われません。ということは、ノラ猫はいつも一人。触れ合う仲間も話をする相手も持っていない孤独の存在ということになります。

 サン=テグジュペリの「星の王子さま」に王子さまがキツネと出会う場面があります。王子さまはキツネに「遊ぼう」と声をかけますが、キツネは「きみとは遊べない。なついてないから」と言います。それを聴いた王子さまは「なつくってどういうこと。なつくってどういうこと」と2度訊ねます。


 キツネは答えます。「なつくって絆を結ぶということだよ」と。私はいま改めて思います。私たちは絆を結んだ生活をしているでしょうか。親子兄弟夫婦友人知人、そして民族宗教文化を異にする人たちと絆を結べているでしょうか。絆を結ぶということはどういうことなのか改めて考えたいと思います。


「もしきみがぼくをなつかせたら、

 ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる」

                <キツネ>