「ひとりでに損する」 №560

 「ひとりでに損する」 
令和元年10月25日

 いつでしたか、“洋仙名言”として「雨降れば雨に濡れ風吹けば風に吹かれる」という言葉を申し上げたことがありましたね。その言葉を思いついた当時、相田みつをさんが「雨の日には雨の中を風の日には風の中を」と言われていることを知ってびっくりしたのでしたが、今日は同じころに思いついた“名言”「ひとりでに損する」を申し上げたいと思います。

 端的な話です。切り分けたケーキが幾つかあってそれを何人かが順番に取っていくことになったとします。その時ケーキが見た目にも大小不揃いであれば当然大きい方を取りたいと思うのが人情でありましょう。ましてケーキが好きな人であれば言うまでもありません。ためらいもなく大きい方を取るのが当たり前と思います。

 しかしその時、敢えて小さいケーキを取る人がいればそれは配慮でありましょう。ケーキ好きの人のために自分は小さい方を取って大きい方を譲ってあげるというのは思いやりです。欲深ければそれほどケーキが好きでなくても大きい方を取るかも知れません。人のために譲るということはなかなかに難しいことです。

 「ひとりでに損する」という言葉を思いついたころの私は「敢えて人に譲る」ということが課題だったのだろうと思います。敢えてすることにそれなりの思いを必要にしていたはずです。だからこそ人生におけるすべての場面で損することが敢えてでなく自然にひとりでに出来るようになりたいという思いがありました。

敢えて、には無理があります。その無理をなくして自然に、結果的にいつも損をする自分になりたいという気持ち。それが「ひとりでに損する」だったのです。「雨ニモ負ケズ」の「ワタシ」が「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」という損な生き方を目指したように損することを身につけたいと思ったのです。

 「ひとりでに損する」という言葉を思いついたのはもう40年以上も前のことです。しかし振り返って私はその「ひとりでに」がまだできていません。損すること自体ができていないと慚愧に堪えません。人は損ができるようになってようやく一人前。その損を自然に出来るようになって初めて「観音人」なのです。

 損すると思うことなく損をする

  それがかんのん慈悲のかんのん



 

空即無常 №559

空即無常
令和元年10月18日

何と大発見と言いますか大変なことに気づきました。般若心経に出てくる例の「色即是空」という言葉、難解ですよね。皆さんも恐らく解説書の説明に分かったような分からないようなで要領を得ないのではないでしょうか。ところが、「何だそうだったのか」と思えることに気づきました。それが表題の「空即無常」なのです。

私は以前、色即是空の「空」を「神」あるいは「神の仕業」と理解していました。「空」を「天」すなわち「神」と取ったのです。空を神もしくは神の仕業と考えると空を素直に理解できました。私たち人間を初めすべてのもの(色)は神つまりは神の顕現と捉えることによって心経のいう色即是空を理解できたと思ったのです。

その思いは今も変わりません。しかし、空を神と考えることは仏教では異論になります。仏教では創造主としての神を持たないからです。仏教の教義に神はないのです。ところがつい最近、色即是空・空即是色の空即是色をAとして三段論法が成り立つことが分かりました。その結果が「空即無常」なのです。

その三段論法は「諸行無常」の「諸行」イコール「色」として次のように成り立ちました。A空は色である(空即是色)。B色(諸行)は無常である(諸行無常)。ゆえにC空は無常である(空即無常)です。これで行けば、色即是空は色即無常即ち諸行無常に返ります。般若心経も私たち人間が無常の存在であることを言っていることになります。

如何でしょうか。空は無常、と理解することによって「空」を理解できるように思われませんか。「あってない」とか「空しい」とかいう言葉に迷っているより分かりやすいのではないでしょうか。私たち人間はむろん、つくられたものすべてが瞬瞬刻々に変化していく、つまりは無常の存在だというのが色即是空なのです。


 色即是空というのは私たちへの戒めだと思います。私たちはとかく自分はもちろん周囲の人も物も変わらずあり続けると思いがちです。しかしそれは思い違いに過ぎません。この自分の身体も一時も休まず変化し続けているのです。昨日の自分と今日の自分は違うのです。それが無常。それを覚悟しなければなりません。
 

  朝夕の冷気一段つのる日に
  これぞ無常と秋の風吹く

 
 

“同行二人” №558

 “同行二人”
令和元年10月17日
 
 今月2日~4日、お遍路に行ってきました。例の高林寺さんが企画して下さったのですが今回は主体がバス利用でした。その裏には皆さん歩き遍路が困難になったという年波事情がありますがその典型が私でありましょう。この二年ほど筋肉痛になって歩くことに自信がなくなった私には歩けるところだけ歩くという有難い計画でした。

 で、表題の“同行二人”。お遍路の別名とも言えるこの言葉はむろんお遍路をする者にはお大師様がいつも一緒にいて下さるという意味です。私も自身最初のお遍路の時四国にはお大師様が実在しているという体験をしましたが、お遍路をする者、別けて歩き遍路をする者にとって「同行二人」は言葉を越えた意味と力を持っていると言えましょう。

 しかし、今回の“同行二人”は不埒にもそれとは逆の体験なのです。自分の心の中のもう一人の自分。その自分と一緒に歩いているという意味なのです。

何もかも投げ捨てたいと思うほどダメな自分と二人で歩く

上の歌はそんな思いの中で浮かびました。ダメな自分との“同行二人”なのです。

 人は誰しも明るい部分と暗い部分を持っているはず、と思います。自分自身のことを言えば、自慢し誇りに思う自分よりも勇気なくずるく卑怯で恥ずかしい体験の方が遥かに多いと言わざるを得ません。そんな記憶がよみがえる度ワーッと叫びたくなるのです。でもいくら叫んでも体験の記憶は消えることはありません。

 そう思うと私もちろん、人はみな自分の心の中の善悪二人、正邪二人、聖俗二人、欲無欲二人と一緒に人生を過ごさざるを得ないのではないでしょうか。善悪正邪聖俗欲無欲などの両面を振り子のように揺れながら人生を過ごさざるを得ないのではないでしょうか。時に善が勝ち時に邪に負け時に俗と欲に溺れながら過ごさざるを得ないのではないでしょうか。

 お釈迦さまは「悪いことはせずよいことをしなさい。心清らかにすることに努めなさい」と言われました。私はこのお釈迦さまの教えに従いたいと思います。無惨な過去は過去としてこれからは心の中の善人義人そして聖人とともに歩むことを努めたいと願って止みません。それこそが私たちの精進だと思います。
 
 
 
 迷うがゆえに三界は城なり
 悟るがゆえに十方は空なり
 本来東西なく
 何処(いずく)んぞ南北あらんや

よい話二つ №557

よい話二つ
令和元年10月8日

 毎月決まってお詣り下さるUさんからとてもよい話を伺いました。Uさんの生活体験談はいつも面白く感心させられることが多いのですが、今回の話はよい話というだけでなく私たちも見習うべきことがあると思いましたのでご披露させて頂くことにしました。普段の心がけがどんなに大切かと思われるのです。

 その一はUさんのお母さんが亡くなった時の話です。Uさんのお母さんは今年一月に亡くなられたそうですがその当日朝、入所していた施設から連絡を受けてお母さんの部屋に着くなりUさんは思わずお母さんを抱きかかえるようにして耳元で「お母さん有難う」と叫んだというのです。するとお母さんは大きな息を二つして亡くなったというのです。

 この話を聞いて私はお母さんがUさんの感謝の言葉を聞いて喜びのうちに亡くなられたと思いました。人の末期、喜びと満足で旅立つことができたらそれこそが大往生でありましょう。Uさんがどうして今わのお母さんにその行動ができたのか。それはUさんが日頃お母さんに感謝の思いを持っていたということです。とっさの行動には日頃の思いが如何に大切かでありましょう。

 もう一つの話はUさんの娘さんの話です。ある日、娘さんが怠けてばかりで成績もよくない高校生の息子に腹を立てて「もうお弁当は作らない。お昼代に500円渡すことにした」と電話してきたのだそうです。Uさん、それを聞くなり「どんなに成績が悪くても怠惰でもお弁当はちゃんと作ってやらなければだめ。500円で親子のつながりができると思う?」と諭したのだそうです。

 娘さんも電話してくる位ですから迷ってもいたのでしょう。Uさんの言葉に翻意したそうですがこの話は親子という縁を考える上で意味深いことと思います。人間社会の類型に共同社会、利益社会という考えがありますが共同社会の典型とも言うべき家族はまさに運命共同体とも言える緊密な関係を持っています。

 その関係を「強連結」と言いますが、それは例えれば子どもがどんなに反社会的な行為をしようとも親はその子どもの側に立って子どもを擁護することだと言います。その時そのことができるか私は自信がありませんが、Uさんの娘さんへの諭しは家族が「強連結」の関係だということを改めて考えさせてくれました。
 

「子は三界の(くび)(かせ)
も子どもへの愛情のゆえんだね~。
 

 

おかげさま №556

おかげさま
令和元年10月1日

 明日という字は明るい日と書くのね/あなたとわたしの明日は明るい日ね/それでもときどき悲しい日も来るけど/だけどそれは気にしないでね/二人は若い小さな星さ悲しい歌は知らない/

 のっけから恐縮。上の歌ご存知でしょうか。昭和44年、アン真理子さんが歌った「悲しみは駆け足でやってくる」の歌詞一番です。

 私はむろんこの歌を聴いていますが、ちょっと寂しげな歌だったためか愛唱するまでには至りませんでした。でも何となく心に残ったのは「明日という字は明るい日と書くのね」という感覚に思いがけぬ新鮮さを覚えたからだったと思います。明日という字を分解すれば確かに明るい日になりますが当時の私にそういう解釈は思いもよりませんでした。 

 いやまた何で表題とは関係ないことかと言いますのは、先日ふと「人」という字を上の歌のように分けたら「人いう字は支え合いなのね/人と人とが助け合いするのね」と歌えると思ったからです。「人」の字は倒れそうになる左の人を右の人が支えているように見えますよね。「人」が象形文字であることを無視すればそういう解釈ができます。

 先日のたより「見えないお給料」以後、つくづく思うのです。私たちは助け助けられて生きていると。私は真実多くの人に支えられ助けられて生きています。多くの人のおかげを頂いています。そしてわずかながらも私も誰かの支えになっているかも知れません。互いに支え支えられて生きている。それが人間というものではないでしょうか。

 先日、3年前の熊本地震をきっかけにホームレスになったという66歳の男性の話を聞きました。何とその方は「人生の中で今が一番幸せ」と言われるのです。何が幸せなのか。それが人なのです。

炊き出しをしてくれる人、茶飲み仲間になった警備員、飲み物を差し入れてくれるホームレス仲間、そういう人とのつながりの中で幸せという思いが生まれているのでした。

 その男性はホームレス生活は自分にとって「頭と心のリハビリ」かも知れないと言います。そして「一段落したら今度は自分のような誰かのために行動したい。善意のお蔭を受け取るだけではなくて渡すことができればその3倍くらい幸せな気分になれるのではないか」と言うのです。まさに「人」ではありませんか。応援してま~す。



知らず知らずに 頂くおかげ

  おかげで今日も 生きている