「心のGP」再考 №691

 「心のGP」再考

令和4年7月23日

 Oさんのご子息様が心臓手術をされました。弁膜に異常があってかねて予定されていたのですが、開胸手術ということでしたからご本人はもちろんご家族にとっても不安と心配に悩まされたことは申し上げるまでもありません。しかし、その不安を乗り越えて手術は無事成功。定りに行うことができました。まずは目出度しです。

 いえまた何でこの話かと言いますとOさんから手術順調のご祈念の依頼を頂いていたからです。観音さまのご加護で大手術が成功しますようにと祈祷を頼まれていましたからその都度、どんな手術か、いつするのかなどをお聞きし毎朝、手術順調を祈願していたからです。手術が無事に終わったという知らせに私も安堵でした。

 それで思い出しました。もう数年前のことになると思いますが、このたよりで「心のGP」を申し上げたことがありました。GPa General Practitioner)と言うのは主に内科の家庭医のことです。体のことについて言えば自分の体をよく知ってくれている家庭医が必要であると同じに心についても「心の家庭医」が必要ではないかという思いでした。

悩みや苦しみがない人はいません。不安や心配がない人もいません。その時、その悩みや苦しみ、不安や心配を誰かに話すことができたら、それが安心につながるのではないでしょうか。私は寺が「心のGP」になることを望んでいます。悩みや苦しみを聞かせて頂くことが救いになるならばどんなにか嬉しいことでありましょう。


「傾聴」という言葉をお聞きになったことがあると思います。その意味は文字通り「耳を傾けて聴く」です。聴くだけです。相槌を打つことはあっても聴く側が意見を述べたり指導したりすることはありません。まして言っていることを否定することなどはありません。ただ聴く。耳を傾ける。傾聴はそれだけです。

下の住職ネコちゃんも言っていますね。悩みや苦しみは話すことで軽くなります。喜びは話せば一層嬉しくなります。そして話すことによって思いもしないヒントを掴むことがあります。それが問題解決になることがあります。どうぞ皆さん寺にお出で下さい。話を聞かせて下さい。ご遠慮はいりません。


   悩みは話せば軽くなる。

喜びは話せば倍加する。

話せばそこにヒントがある。


お遍路で考えたこと④ 続・ルームキー紛失事件 №690

 お遍路で考えたこと④続・ルームキー紛失事件

令和4年7月18日

 前号で私がホテルの部屋のカギを見失い、散々探し回った挙句に「こんなことってあるか」という結果になったことを申し上げました。実はカギは脱衣かごの隅っこにあったのですがそのかごを何度も見ながら見つけることができなかったのでした。

 何度も脱衣かごを見ながらカギを見つけることができなかったのはカギが死角にあったからです。ということは自分では確認しているつもりで正しい確認ができていなかったということです。考えてみると私たちは日常物事を見ているつもりでいて見ていない、つまりは死角を無視して見たつもりになっていることが多いのではないでしょうか。

 このことは単に見るということだけではなく思考についても同じことが言えるように思います。思い込み、早合点がそれです。自分一人がそれで間違いないと信じ切ってそれ以外の考えを拒絶してしまえばそれは死角を忘れた目視と同じであり、物事を正しく判断できていないということになるでありましょう。

 思います。プーチンのウクライナ軍事侵攻がそれではないでしょうか。プーチンはウクライナ侵攻をナチスからの解放と言っていますが、それはプーチンの独断であり単なる思い込みでありましょう。プーチンはまさに思考において死角無視に陥っていると言うべきです。しかし、私たちも知らず知らずこの死角無視をしているのではないでしょうか。

 今回のカギ紛失でもう一つ思ったことがありました。それは無意識の動作ということです。そもそも私がカギを見つけられなかったのは無意識に脱衣かごに入れたからです。考えると私たちの日常の動作は殆ど無意識ではないでしょうか。決まりきった動作は敢えて意識しなくてもできるということがその根底にあるのだと思います。


 ではその無意識動作の弱点を克服するにはどうしたらよいのでしょうか。考えるとやっぱり確認しかないでしょうか。電車の車掌さんは出発できるようになると前方を指差す動作をしますね。あれこそ確認の意識化でありましょう。歳取れば取るほどしまい忘れなどがないように動作の意識化が大事とつくづく思いました。


<車掌確認動作>

指差し(動作)して「よし!」(喚呼)

 発車! 

お遍路で考えたこと③ ルームキー紛失事件 №689

 お遍路で考えたこと③ルームキー紛失事件

令和4年7月17日

 いやはや今回はボケの始まりの話です。いやボケの始まりかという話はすでに何回かしていますから今回はボケが進んでいる話と言った方が正しいかと思います。初日21日の宿舎、道後山の手ホテルで私は部屋のカギを見失ったのです。

 最近のホテルは部屋がオートロックになっていますね。ということは、部屋から出る時にカギを持って出なければ再び部屋に入ることができません。いくら私でもそれは承知しています。泊まったホテルでは部屋に入ったらカギを所定の場所に置かないと明かりがつかないようになっていましたから部屋で見失うことはないシステムでした、

 で、なのです。ホテルについてすぐ風呂に行ってのこと。上がろうとしてカギがないことに気づいたのです。脱衣かごの中に見当たりません。脱衣所の中にもないのです。ひょっとしてカギを持たずに来たかとフロントに頼んで部屋を開けて貰って探しましたがそこにもありません。仕方なく合いカギを借りる羽目になりました。

 私は風呂へは部屋からどこにも寄らずにでしたから途中で紛失することは考えられません。ひょっとして落としたかとも思って廊下やエレベーターも確かめましたが見つかりません。こんなことってあるかという思いでした。それがそもそもボケなんでしょうね。その後、別の意味でこんなことってあるか、ということになったのです。

 夕食が済んでのことです。もう一度風呂に行った時一緒になった方に「このかごに入れたはずなんだけどねー」と脱衣かごを傾けましたがやはりありません。ところが、その話を聞いていた隣の方が「これじゃないですか」とかごからカギを取り出してくれたのです。まさか、と思わず声を上げるほどびっくりでした。カギはかごの手前角にあったのです。

 私が何度探してもカギを見つけられなかったのはカギが死角にあったからです。反省を込めて思いました。自分の確認には思いもつかない見落とし、死角があったということです。今回で言えば脱衣かごを確認したつもりで全体を確認していませんでした。このことは自分が思うことについても言えるでありましょう。反省です。


右よし左よし。出発進行!


お遍路で考えたこと②日日是好日 №688

 お遍路で考えたこと② 日日是好日

令和4年7月16日

 前号に書きましたが今回のお遍路3日間のうちの初日621日は雨でした。小月駅を午前8時に出ましたが、すでにこの時から雨でした。それほど強い降りではありませんでしたが移動中ずっと雨。柳井からフェリーで愛媛県の三津浜港に着いてやや小止みになりましたがその後も降ったりやんだりでした。

 今回はバス遍路ですから雨でも支障はないのですが、とはいえ、駐車場から札所までは多少なりとも歩かなくてはなりませんから傘を差さずに済む方が楽なことは言うまでもありません。中には駐車場から何百メートルも歩かなくてはならない所もありますから雨でない方がうれしいのはもちろんです。

 その時ふと「日日是好日」という言葉が思い浮かびました。この言葉は元々中国宋時代の仏書「碧巌録」に出てくる言葉だそうで、その意味は「毎日毎日が平和なよい日であること」だそうです。とすると、まさに今のウクライナ、アフガニスタン、ミャンマーなどは「日日是好日」とは真反対ということになりますね。

 脱線して失礼しました。いまこの「日日是好日」という言葉はその日のお天気について言われることが多くなりましたね。申し上げましたように外での活動の時にはそれが楽に出来るようにと晴れの日を望み、その望みが叶えばやれうれしや好日好日と喜ぶのが私たちです。誠に勝手な解釈と言わざるを得ません。

 考えてみれば、天気は人間の都合であるのではありません。人間の都合を忖度することは全くありません。その日の気象条件によって晴れたり降ったりするだけです。となれば、人間はその日の天気が自分にとって都合悪くても受け入れるしかないのです。


 いまはどれだけの人がそれをしているかと思いますが「晴耕雨読」という言葉がありますね。晴れの日は耕し雨の日は読書と言うのは毎日の天気をそのまま受け入れるということですよね。人生のうちにはよい時も悪い時もあります。前号のように「まさか!」の時も必ずあります。それがあっての「日日是好日」でありましょう。


雨降れば雨に濡れ

風吹けば風に吹かれる

             洋仙


お遍路で考えたこと①まさか!№687

 お遍路で考えたこと①まさか!

令和4年7月7日

 先月62123日、久しぶりにお遍路に行ってきました。今回は46番浄瑠璃寺を振り出しに愛媛県の19カ寺を回りました。何を隠しましょう。私相変わらずの筋肉痛で迷いながらの参加でした。でも行けば行っただけのことがあるのがお遍路ではないでしょうか。

 お天気は1日目は雨、3日目は熱中症が心配のカンカン照り。バス遍路ですから歩き遍路の大変さはありませんが寄る年波の者にはバスの駐車場から札所本堂へ行くまでもなかなかの時があります。お遍路は札所近くまで行ってもなお坂道や階段があるのが当たり前なのです。

 ま、それはともかく表題の「まさか!」って何か。今回のお遍路で考えたことの1番目にこの「まさか!」をお話ししたいと思います。

 人生には3つの坂があるという話は皆さんもご存知と思います1つ目は上り坂、2つ目は下り坂、そして3つ目が「まさか!」ですね。誰が考えたのかうまいことを考えついたと思います。言われる通り人生には上り坂のように大変な時も下り坂のように楽な時もありますね。それは当たり前。大変なのが「まさか」なのです。

実は今回のお遍路中にこの「まさか」があったのです。2日目の朝、ホテルを出て数分、バスはカーブしている狭い道に入りました。家の軒との間が5センチもあるかというところです。おぉ何と、そのカーブを曲がり切れませんでした。バスの窓ガラスがひさしに触れるや窓ガラスは一面にひびが入ってばらばらと砕け散ったのです。バスはその後、もう1枚窓ガラスを破損した状態で前進も後退も出来なくなり、警察に来て貰ってその指示誘導でようやくその道から抜け出ることがきたのでした。


 正直、その時点でお遍路は中止せざるを得ないかと思いました。しかし、添乗員Yさんの驚くべき判断力と迅速な手配ですぐに伊予鉄の代替バスが用意されお遍路を予定通りに続けることができたのでした。その時思いました。まさかはいつどこで起きるか分からない。でも実はまさかは人生の道連れです。その時どう対応できるかがまさかの意味ではないでしょうか。添乗して下さったYさんに脱帽敬服。有難うございました。


その時 自分ならば どうする

            みつを