「心のGP」再考
令和4年7月23日
Oさんのご子息様が心臓手術をされました。弁膜に異常があってかねて予定されていたのですが、開胸手術ということでしたからご本人はもちろんご家族にとっても不安と心配に悩まされたことは申し上げるまでもありません。しかし、その不安を乗り越えて手術は無事成功。予定りに行うことができました。まずは目出度しです。
いえまた何でこの話かと言いますとOさんから手術順調のご祈念の依頼を頂いていたからです。観音さまのご加護で大手術が成功しますようにと祈祷を頼まれていましたからその都度、どんな手術か、いつするのかなどをお聞きし毎朝、手術順調を祈願していたからです。手術が無事に終わったという知らせに私も安堵でした。
それで思い出しました。もう数年前のことになると思いますが、このたよりで「心のGP」を申し上げたことがありました。GP(a General Practitioner)と言うのは主に内科の家庭医のことです。体のことについて言えば自分の体をよく知ってくれている家庭医が必要であると同じに心についても「心の家庭医」が必要ではないかという思いでした。
悩みや苦しみがない人はいません。不安や心配がない人もいません。その時、その悩みや苦しみ、不安や心配を誰かに話すことができたら、それが安心につながるのではないでしょうか。私は寺が「心のGP」になることを望んでいます。悩みや苦しみを聞かせて頂くことが救いになるならばどんなにか嬉しいことでありましょう。
「傾聴」という言葉をお聞きになったことがあると思います。その意味は文字通り「耳を傾けて聴く」です。聴くだけです。相槌を打つことはあっても聴く側が意見を述べたり指導したりすることはありません。まして言っていることを否定することなどはありません。ただ聴く。耳を傾ける。傾聴はそれだけです。
下の住職ネコちゃんも言っていますね。悩みや苦しみは話すことで軽くなります。喜びは話せば一層嬉しくなります。そして話すことによって思いもしないヒントを掴むことがあります。それが問題解決になることがあります。どうぞ皆さん寺にお出で下さい。話を聞かせて下さい。ご遠慮はいりません。
喜びは話せば倍加する。
話せばそこにヒントがある。