真実の修行 №604

 真実の修行

令和2年9月28日 

先日、毎回坐禅会の折に読んでいる「正法眼蔵随聞記」に道元禅師が考える修行者についての話(巻6-21)がありました。道元禅師は宋の国でも沢山の修行者を見てきたでありましょうし、帰国後、ご自分の下に集まってきた多くの修行者を見ながら本当の仏道修行はどうあるべきかを考えておられたに違いありません。

 道元禅師は修行者を三つタイプに分けて言われます。その第一は人々に有難がられ供養されたいという思いだけで自分の立場を自慢したり自らを道心ある善人だと吹聴したりする修行者です。禅師はそれらの人を「言うに足らざるの人」とばっさりです。自分を偉く見せようとすること自体が修行とは程遠いと思われたのでしょう。

 第二に挙げたのは、修行はするけれども生来ものぐさで怠け者という人です。目上の人が見ているところでは修行している“ふり”をするが、そうでなければ何かにつけて休んだり遊んだりする人です。禅師はこれらの人はまだ自分の名誉利益が捨てられていないと言います。当然でありましょう。誰かが見ている時だけの修行は修行とは言えませんんね。

 そして第三に挙げたのは人が見ていようといまいと「仏道は人のためではない。自分のためである」と本気でやっている人です。しかし、禅師はこの人に対しても「自分というものを離れていない」とし、本当の修行とは「身心を仏法に投げ入れて道を悟り法を得ることさえ望まず」修行することだと言われるのです。

 これを読んでいて私はこの教えは生きている人みんなに当てはまることだと思いました。名誉に捉われたり振りをしたりするだけの生き方は真実の生き方とは言えません。仏道修行の根本が身心を仏道に投げ入れることであるならば自分の生き方に命を懸けるほどの気概を持ってこそ自分の人生修行ではないでしょうか。

   いきなり話が飛びますが、今年35年目を迎えた日航機墜落事故。84歳のノンフィクション作家・柳田邦男さんは「現場に行かなければ分からないことがある」という信念で今年も杖を突きながら御巣鷹の尾根に登られたと言います。身命を賭して作家魂に生きる柳田さんこそ道元禅師が絶賛する修行者、求道者でありましょう。

 

百尺の竿頭須らく歩を進むべし

          <長沙景岑>

 

諸行無常 №603

 諸行無常

令和2年9月17日 

    吹く風にわくらば散らす桜なり移ろうものはかくの如きか

 つい先日のことです。桜の木の下にいると、さっと吹いた風に桜の葉がびっくりするほど沢山散りました。わくらばです。この時期、わくらばに不思議はありませんが、僅かな風に思いもしない沢山の葉が散ったことには驚きを禁じ得ませんでした。

 その時思いました。それが上の一首です。桜は冬の寒さに耐えて春花を咲かせます。しかし、その花も僅か一週間。そして若葉になり、その若葉は青葉となって繁ります。しかし、八月も下旬となれば葉の一部はわくらばとなって散ります。誠にそのように桜もまた一年のうち一刻も休むことなく移ろいを続けています。

      灼熱太陽覆邑城      灼ける陽ざしが降りそそぎ

      一切万物寂無声      静まり返るものすべて

      其中但行雲流水      ただゆく雲ゆく水のみが

      無常永遠続遊行      無常のことわりそのままに

 上の詩は今年八月法要の法語です。この夏も各地で猛暑でした。40℃になったところもありましたね。そのような暑さになると動物も植物も暑さを忍んでじっと堪えるしかありません。照り返す陽ざしの中に動くものも声を上げるものもなく静まり返ります。しかし、その中にも動くもの逝くものがあります。

 雲と水。行雲流水。その名の通り、雲と水はどんな暑さにも逝くことを止めません。雲は風のまにまに逝き、水は川となって海に流れていきます。しかし実は、暑さに身をひそめる植物や動物も止まったままではありません。動物も植物も雲や水と同じように一刻も休むことのない変化を続けているのです。

 最近、仏教の教えの中で一番大切なことは「諸行無常」ではないかと思うようになりました。全てのものは一刻も休むことなく変化し続けるという教えは自然の摂理、宇宙の真理だと思います。私たち人間もその例外ではありません。生老病死という言葉は私たち人間が移りゆくさまを象徴しているのではないでしょうか。

今日の自分は昨日の自分ではない。

明日の自分は今日の自分ではない。